文/中国の大法弟子
【明慧日本2020年9月7日】ある日、同修が「ある事でずっと交流したいと思っていました。2年前、あなたが明慧に投稿した文章の中に師父の説法の一部に抵触する内容がありました。あなたは、良くない物質に遮られていて自らの問題が見つからないでいます。真剣に自らの問題を探し出し、そして師父に謝るべきです。あなたの過ちに対して、師父はどうもされませんが、しかし護法神と旧勢力は見逃しませんよ」と私に話してきました。
「発正念に関する記事ですか?」と聞いてみると、彼女はそれを認めた上で「文の中に師父の説法に抵触する内容がありました」と同じ言葉を強調してきました。「師父の説法に反する内容を書くなんて、そんな無茶なことはしていませんよ」と言った後、さらに文章の前後の関係など一通りの説明を言い加えました。そして彼女は「某同修は師父の要求通りに行わず、やってはいけないことをしてしまったため、現在の状態は非常に良くないのです。しかもいまだに、どこがいけなかったのかの原因を分かっていないようです」と別の例を挙げました。
「二の舞を踏まないように」と私に示唆しているのだと理解していますが「そういうつもりで投稿した訳ではありません」と私は弁解せずにはいられませんでした。しかし彼女は「師父の説法に抵触する内容がありました。すぐに師父に謝ってください」と私に対する言い方を変えようとはしませんでした。「わかりました。当時の投稿内容をもう一度読んで確認してみます」と私は答えました。最後に同修は「当時もあなたに注意しましたが、あたなは頭を下へ向けて、ずっと黙っていました。あれから数年間も経過し、1日も早く正さなければなりません」と私に言い残しました。
私は同修にお礼を言い、帰宅を急いでいました。心の中で「こんなに経っているのに、まだ気にしているなんて、そんなに厳粛な問題なのか? 必ずその文章を見つけ出して、誤解が解けるように改めたい」と心の中で決めました。
家に着いた途端にパソコンに電源を入れようとしたその時、ふっと自らの心の動揺に気付き「どうしてこんなに急いでいるの?」、「なぜ、同修からの誤解に納得していないのか?」、「なぜ、事実を明らかにしようと急いでいるのか?」、「なぜ、自己の正しさを実証したいのか?」、「一体まだ取り除けていない執着心は何なのか?」、「仮に結論的に自分が正しかったとしても、修煉者にとっては何の意味があるのか?」等々を冷静になって考え直すことにしました。師父はずっと内に向けて探すようにと教えてくださっていますが、同修の話が正しいか間違っているかにかかわらず、冷静になって自らを探すのは最も正しい行いではありませんか。なぜ、同修は自分に再三注意してきているのか、投稿の件とは関係なく、日頃の行いの中で果たして師父と法への不正な態度がないのかを、とにかく真剣に内に向けて探すことに決めました。
パソコンの立ち上げを後にして、まずは、師父の写真の前に立ちました。合掌しながら「師父、私は間違えました。内に向けて探さず、必死に自分の正しさを実証しようとしていました。師父の要求通りに行えませんでした」と敬虔に反省しました。
その後、普段の自分を真剣に見つめはじめました。驚いたことに、確かに師父に対する不敬の言動がたくさん見つかりました。大法の書籍を随意に置いたり、他人を説得させる根拠として、師父の説法を抜き出してノートに書き下ろしていました。又、面と向かっての真相伝えを実行していないし、また、法理を常人の理論のような知識と同じように学んでいるなど、全ては師父への不敬の現れです。つまり、これらを正さないと旧勢力に迫害される理由にもなります。ここまで書いて、同修への感謝の気持ちでいっぱいになりました。
自らの問題が見つかり、次第に心も穏やかになりました。自分の正しさを証明するための内容の確認ではなく、本当に法理に則っていない所はないかを確認したい目的で正してから、パソコンに電源を入れました。以前の記事を読み直し、特に問題ないように確認がとれました。肩から重みが降りたように心が軽快になりました。
仮に同修間においてどんなことが起きていても、内に向けて探すのは最も重要な解決方法だと悟り、心もパッと明るくなりました。同時に、再び、解釈する心も無くなりました。残っているのは同修への感謝の気持ちだけです。
今回のことを通じて、自分自身を証明する心、人に指摘されたくない心、他人に認められたい心、闘争心などなどの執着に気づきました。今日からは向上の道における「障害物」を一つ一つ取り除くように、修煉の道をしっかりと歩んでいきたいと思っています。