【明慧日本2020年10月5日】私は、出勤途中に同修・Aさんと偶然に会って「一緒に行きましょう」と笑顔で話しかけました。それ以前にも、Aさんからは、私達は同じ所に住んでいるし職場も同じで、一緒に出かける時間を約束すれば、通勤途中に法を覚えたり、切磋したりことができると何度も言われていました。しかし、今まで一度も会ったことがなかったのです。その日は、遅刻しそうだったのですが2人は偶然に出会いました。遅刻しそうなので、私は「もうすぐ8時だよ、もうすぐ8時になるよ」と言いながら、ものすごい速さで歩いていました。
私は口ではもうすぐ8時だと言っていましたが、実は頭の中では「あなたはいつも7時半までには家を出ると言っていたのではないか?」という善意ではない考えが駆け巡っていました。私は「いつも彼女より遅く家を出るのになぜほらを吹くの! 自分の歩き方を見て、見苦しいね、あなたは頭を上げ、胸を張って歩くことができないの?」と思うと、突然、Aさんはとげとげしく私を責めてきました。私は「いつも私を責めているのは、それは理由があるからで、今日は何の揉め事もないのにどうして私を説教するの?」と考えました。
私の角度から見ると、Aさんは、前世で私と深い恨みや憎しみがあったかのように、いつも彼女の言葉は辛辣冷酷であり、今まで私に優しく話しかけてくれたことはありませんでした。同じ言葉でも、彼女の口から出た言葉は人を傷つけます。しかし、つい数日前、普段私にひどい扱いをしているAさんの愚痴を陰で言っていた時、ふと師父の説法『精進要旨』の中の「時間との対話」、「彼らが相手のどうこうを見るときの目で、逆に自らを見ることができれば、と思います」 [1]を思い出しました。私は「なるほど、彼女のこういう欠点が私の中で多すぎませんか? 彼女の欠点が私にも反映されているのではないでしょうか? 私も家族にそのように話しているのではないでしょうか? 私は誰かの気持ちを傷つけないと、気が進まないようです。このような欠点があるからこそ、彼女の欠点が見えてくるのです! 本当に恥ずかしく思いました。今まで気づかなかったのが残念です」
一部の大法弟子は、同修は自分自身の鏡であると言います、同修は自分の様々な欠点や思考を照らし出す、私はこの見解は本当に正しいと思います。Aさんが私を責めていることは、実は私の頭の中でよくない念が生じたからです。もし私自身の空間場が非常にきれいであれば、この汚れた思考がなければ、Aさんはそれを言うでしょうか? いや、もし自分に闘争心がなければ、Aさんがそんなことを言うでしょうか? いやいや、意地悪な心でAさんを計らなければ、それを向上する機会と捉えれば、私はまだAさんの言葉を辛辣と思うのですか? きっとそうは思わないでしょう! これは全部自分のせいではないでしょうか? Aさんに言われたら不愉快だと思っていたのは自分の心が澄んだ状態に達していなかったのではないでしょうか? Aさんがとげとげしい言葉を使って私を苛立たせていなかったら、私は自分のいけないところを探すことができたでしょうか? もちろんできません。私は心から同修に感謝の言葉を伝えたいと思います、同修本当にありがとうございます!
注:
[1]李洪志師父の著作:『轉法輪』「精進要旨」