【明慧日本2020年10月9日】長い間、私には大きくも小さくもない、ある問題が存在しています。つまり自分の考えで人を判断しています。そして、あらゆる面で他人も自分と同じだと思い込んでいました。例えば、経験のようなもの、知識のようなもの、能力のようなもの、行動のようなもの、さらには大法に対しての理解のようなものです。そのため、他人や特定の状況に対する誤った判断があることが多く、場合によっては仕事にまで影響を及ぼすこともあります。
これも一種の執着のようなものだと気づくことが出来なかったため、この問題を重視したこともなく、かえって、自分の単純な心とシンプルな考えの現れであり、別に、悪いことではないと考えていました。法の勉強と師父の啓発を通して、私は悟ったのですが、実はこれは深く隠れた自我への執着であることに気が付きました。
良い言い方をすれば、自分の考えで人を判断しています。実は他人の具体的な状況を顧みず、本当は他人のために考えることが出来ないのです。ただ単に、自分の意志を他人に押し付けているだけの自己執着と利己主義の反映なのです。
よくある例を挙げると、普段私は嘘を言わないので、相手も本当のことしか言わないと思っています。表面的には悪意があるようには見えないのですが、しかし一旦、相手が嘘をついているとわかると心のバランスが崩れ「あれ? 私は嘘をつかないのに、あなたはまだ嘘をついてるの? なぜそんなに悪いの? あなたは地獄に行くのは当然だ …」などと、明らかに理知でも慈悲でもない、完全に人を悪者扱いしています。
また、自分にとってはシンプルなことでも、他人にとってはシンプルではないかもしれません。しかし、私は簡単にマスターしたと主張していますので、あなた達もすぐに身につけるようにしてください。誰かが自分の期待に沿わない行動をするとすぐに「あれ? あなたはそんなにも馬鹿なのか? そんな簡単なこともできないの? 見るだけで出来ることなのに、また時間をかけて教えるなんて…」と心の中で考えています。幸いなことに、まだ自分の心の中だけで考えてみただけなので良かったと思います。本当に言ってしまえば、それは悪いことになるので、すぐに誰かと膠着状態に陥ったり、対立を始めたり、関係が非常に緊迫したものになってしまうかもしれません。しかし、修煉の角度からみると、単なる思いつきであっても、それは非常に間違っており、真・善・忍の基準とは全く符合していないのです。
本質的には、このような心理状態は、間違いなく自我への深刻な執着であり、自分の基準が正しくて、実に良いと思い込みます。だから、あなた達はすべて私のようにするべきであると考え、あなた達が私と違うことをした場合は、それはいけない、それは良くないと思うのです。
しかし、人はそれぞれが違うということを常人でさえも知っており、常人の理屈でも、自分の基準を他人に押し付けることは良いことではなく、ただ威張っているとか、横暴であると見られるでしょう。自分の視点だけではなく、相手の視点で物事を考えるべきだと常人でさえも知っています。そうであるならば、修煉者はさらによく行うべきで、相手のことをもっと考えるべきだと思います。
悪い言い方をすれば、問題はさらに深刻になります。私が持っているものは良いもので、私の望む通りにしなければならないし、私が望むことをしなければ承知しないなど、 旧勢力は間違いなく同じような考え方で、数え切れないほどの悪いことをし、結局は、自分自身を破壊することになります。
私自身は、かつて同修に対してこのような間違った心理状態がありました。それは私が悟った法理は正しくて高いものであり、あなたと私が理解したものが違うのであれば、それはあなたの次元がまだまだ足りなくて、高次元の法理を悟ることができないからだと思っていました。
私はこれまで修煉の中で何度も失敗をしてきましたが、師父は私を見捨てず、それでも何度も過ちを正し、少しずつ上達していく機会を与えてくださいました。ここで、文字や言葉では、もはや大法や師父が与えてくださった恩恵を表現することができません。さらに精進し、大法の中で自分を正すことをしっかりやり遂げてこそ、師父の恵みに応えることができると思います。
個人的な悟りですので、適切でないところがあればご指摘ください。