【明慧日本2020年10月13日】(中国=明慧記者)広州市の饒卓元さんと妻の林倩さんは医療関係者であり、2人とも法輪功学習者で、卓元さんの両親と兄も学習者である。1999年7月、江沢民集団による法輪功への残酷な迫害が始まって以来、卓元さんは何度も連行され、精神病院に監禁され、労働教養を科されるなどの迫害を受け、2002年8月5日に死亡した。享年34歳。当時、卓元さんの娘はまだ4歳半だった。
饒卓元さん、妻の林倩さんと娘 |
卓元さんの兄・饒超元さんは2000年12月に連行され、1年以上不当に拘禁された後、2003年1月に懲役8年の実刑判決を宣告され、広東省四会刑務所で拷問され、片足に障害を負った。
妻の林倩さんは、中国共産党の関係者に絶え間なく嫌がらせや脅迫をされ、洗脳班に連行されたこともある。2005年4月以降、広州市海珠区の610弁公室の人員らが、何度も林さんを連行しようとしたため、林さんと娘はタイに逃亡せざるを得なかった。
卓元さんは広州市衛生防疫局の職員。1994年12月、広州市で開催された第五回の法輪大法講習会に参加した後、心身とも大きく変化し、長年苦しんでいた慢性鼻炎が消え、元気で希望に満ち溢れていた。
饒卓元さん |
一、法輪功の無実を訴え、精神病院と洗脳班に連行される
1999年7月20日、卓元さんは法輪功迫害の停止を求めて、広州市政府と広東省政府へ請願した後、勤務先の党書記に迫害された。1999年9月7日、卓元さんは北京へ陳情に行き、14日に帰ってきたが、16日の夜、海珠区新港西路派出所の警官らに連行され、20日間拘束された。
2000年7月3日、職場で勤務をしていた卓元さんは、突然、江村精神病院に強制連行され、54日間あらゆる虐待を受け、精神的にも肉体的にも大きなダメージを受けた。「その54日間、夫の居場所を教えてくれる人は誰もいませんでした。2000年8月25日に夫が帰ってきた時、私はようやく夫が江村精神病院に収容されていたことを知ったのです」と妻の林さんは話した。
2001年9月4日の午前、卓元さんは突然、職場の関係者らに連行され、悪名高い「広州市法制教育学校(洗脳班)」に送られ、同月30日に帰宅した。
卓元さんは帰宅した後、家の玄関先にいつも610弁公室の人員が配置されていた。 迫害を避けるために、卓元さんはやむを得ず放浪生活をした。妻の話によると、「家の電話が盗聴されているため、夫は電話をかけて来ませんでした。 どこにいるのか私も分かりませんでした。2001年10月26日、広州市海珠区新港西路派出所の警官から、夫を見に来て欲しいとの電話があってから、夫が再び連行されたことを知りました」という。
二、労働教養所で骨と皮ばかり痩せこけ、妻も洗脳班に監禁
2001年10月26日、卓元さんは仮住まいで海珠区の警官らにより連行され、海珠区第一留置場に送られ、その後、広州市花都第一労働教養所に移送された。
卓元さんはずっと断食して迫害に抗議し、体重が68キロから35キロに減り、様子がすっかり変わってしまった。卓元さんは骨と皮ばかり痩せこけたため、点滴を受けることができなくなり、2001年11月に「重病のため一時出所」として、仮釈放された。
「当時、私は夫を抱きかかえて家に帰りました。夫はすでに歩けなくなっており、家族の皆は夫であると認識できないほどでした。娘は目の前の人が父親とは思えないず、恐怖のあまり大人の後ろに隠れていました」と妻の林さんは語った。
2002年1月19日、卓元さんは自宅で療養していた時、海珠区610弁公室の指示の下で、海珠区昌岡路派出所の警官らは林さんが勤める病院に行き、林さんを洗脳班に連行した。
2002年6月14日、卓元さんは広州市610弁公室・天河区610弁公室・海珠区610弁公室および広州第一労働教養所の警官らにより、自宅から再び花都第一労働教養所に連行された。数日後の同月19日、林さんは洗脳班から帰宅した。
三、饒卓元さんは迫害により死亡
卓元さんは再び連行された後、家族は何度も面会を求めたが、許可されなかった。卓元さんの高齢の母親は心配するあまり、2002年6月28日、広州市から労働教養所に行き、息子に会いたいと申し出ても、会うことはできなかった。
2002年7月1日の午後、海珠区洗脳班、海珠区610弁公室、妻の林さんの勤務先の関係者数人が、林さんを呼んで一緒に乗車し、「饒卓元さんの見舞いに行く」と言ったが、詳細は教えてくれなかった。車が花都市人民病院に着いた時、林さんは不安が胸をよぎった。
花都市人民病院に入って、院長、整形外科の魏主任、花都労働教養所の所長は、「饒卓元は7、8段の階段から飛び降りた後、立ち上がって壁にぶつけて、第5頚椎を粉砕骨折した」と説明した。当時、魏主任が持っていたCT写真を見ると、第5頚椎の断片がはっきりと見えた。医学的常識から分析すれば、卓元さんはビルの階段から転落した後、すでに第五頸椎の粉砕骨折を起こしており、頸椎の下からすべてが動けなくなるはずで、立ち上がることは不可能であり、再び壁にぶつけることも不可能だと考えられる。警官と病院は何らかの事実を隠蔽していることが分かる。
妻の林さんは卓元さんを見た時、卓元さんはすでに話すことができないが、ただ涙が止まらず泣いていた。右耳の周りと首の3/4がうっ血し、腫れている手足は重いものに打撲した跡があり、頭頂部には血腫があり、後頭部にも血腫と傷があったという。
病院で臨終前の饒卓元さんの後頭部に血腫と傷がある |
2002年8月5日午後8時頃、花都人民病院の院長は海珠区610弁公室の人員を通して、卓元さんの死亡した情報を電話で家族に知らせた。34歳の若さであった。医者の話によると、卓元さんの体内は順調に回復しており、感染もないという。家族は、病院が十分な栄養を注入せず、餓死したことを疑っている。家族は請求された10万元の医療費に納得しなかったため、「法廷で会うだろう」と院長に脅かされた。
2005年12月、妻の林さんは中国本土を離れた。
四、兄の饒超元さんは懲役8年を宣告され、迫害され障害を負う
卓元さんの兄の饒超元さんは2000年12月14日、黄金華さん、梁鋼さん、袁華さんなど8人の学習者(全員大卒、院卒)と一緒に、天河区留置場に連行された。
2003年1月14日、超元さんは天河区裁判所に懲役8年の実刑判決を宣告され、四会刑務所に拘禁された。
2004年7月18日、刑務所へ超元さんと面会に行った親族は、超元さんの片足が不自由になり、足を引きずって歩いていることを発見した。
超元さんと同じ監区に拘禁された清華大学の博士・黄奎さんは、次のように話したことがある。「庄文舒さんは数十キロの重さの足かせを付けられ、私たちは両手を後に反らされ手錠をかけられました。警官が『跪け!』と強要した時、私は拒否しました。すると、十数本のスタンガンにより電気ショックを加えられました。私は跪くことを拒否し続けたところ、警官の大きな皮靴で蹴られ、とても大きな音がして、私は倒れてしまいました。その後も十数本のスタンガンにより電気ショックを加えられたのです。 次々と流れる電流、そして点滅する光、音、激しい痛みによって、身体が痙攣を起こしました。警官はさらに掌や耳などの敏感な部位に電気ショックを加え、『罪を認めるか? まだ労働したいのか?』と自白を強要しました」
「迫害の事実を暴くためには、この苦痛の過去を振り返なければなりません。しかし、言葉では限られており、一番苦しく感じたことは言葉で表現できないものです。一番苦しい時、一秒一秒が大変辛く、前に進む僅かな一歩でも巨大なプレッシャーを感じました」