文/中国の大法弟子
【明慧日本2020年12月21日】「左の頬を殴られたら、右の頬も差し出しなさい」という言葉は、普通の人には理解しがたいもので、修煉者でもその奥深い意味を理解できないかもしれません。実際、「左の頬を殴られたら、右の頬も差し出しなさい」という問題について、師父は『シンガポール佛学会成立式典での説法』の中で、明確に説明してくださいました。師父は「彼はあなたのこちらの頬を殴っている時、あなたに徳を与えており、同時にあなたの罪業を消すことを手伝っています。それでも、殴る者の鬱憤がまだ晴れなければ、あなたは更に反対側の頬を殴ってもらえばよいのです。彼はあなたの業を消すことを手伝っていると同時に、あなたに徳を与えているのではありませんか?」と説かれました。
「左の頬を殴られたら、右の頬も差し出しなさい」という言葉を使って、法輪功学習者がなぜ同じことをしないのかと疑問を持つ人がいれば、また、「真・善・忍を説くのではないか、迫害に反対することは忍ができていない」と言う人がいます。これが、「左の頬を殴られたら、右の頬も差し出しなさい」と同じなのでしょうか? 明らかに、これもあれも迫害を正当化する口実なのです。
なぜ迫害に反対しなければならないのでしょうか? 迫害に反対することはすべての衆生への慈悲であるので、まだ救える命を救うことであり、すべての衆生を救うことが大法弟子たちの使命です。
私が覚えているのは、明慧ネットに掲載された記事で、大法弟子を殴っている警官に、突然大法弟子が涙を流して「やめて!」と言ったというものです。警官は、大法弟子はこれ以上耐えられないのだ思っていました。しかし、大法弟子は「あなたは私を殴るたびに、あなたの元神は地獄の門に一歩近づくのが見えました。もし、あなたがこれ以上私を殴るなら、本当にあなたを救うことができなくなります」と言いました。大法弟子の慈悲によって、この警官はすぐに悪事を止めて、救われる機会を得ました。
もし、私たちが迫害に反対しなければ、どのような結果になるのでしょうか。 師父は、多くの説法の中で明確に教えてくださいました。
師父は「ですから、今回の迫害は大法弟子にとって、何があっても、どんな肉体上の痛み、または精神的な苦痛を受けても、迫害がどんなにひどくても、いずれも業を滅することができ、圓満成就に向かうことができます。大法弟子を待っているのはいずれも最も素晴らしいもので、これは皆さんの修煉の目的ではありませんか? しかし、旧勢力は邪悪な按排の中で、いわゆる大法弟子を圓満成就させることを理由に、旧勢力が造ったこの邪党が世の人々、特に中国人に対して最も厳しい迫害を加えました。つまり、人々を腐敗堕落させ、大法に罪を犯すように仕向けたのです。これは中国人を壊滅させているのではありませんか?」[1]と説かれました。
師父は「法徒は魔難を受け 毀されるのは衆生」[2]と説かれました。また 師父は「大難が起きる前に、私はあなたに告げなければならず 世の人々こそが迫害を受けているか弱い者 私はどんなに苦しくても神の路上におり 神はあなたのために私に奔走させる」[3]と説かれました。
迫害に反対して衆生を救うことができれば、全ての衆生に希望があります。ですから、私達はもっと法を勉強して、よく学び、常に正しい考えを明確にし、妨害されないようにしなければなりません。
これは私の個人的な悟りですが、適当でないところがあれば、ご指摘をお願いします。
注:
[1] 李洪志師父の著作:『各地での説法九』「二〇〇九年大ニューヨーク国際法会での説法」
[2] 李洪志師父の詩:『洪吟三』「世々生々は此の一生のため」
[3] 李洪志師父の詩:『洪吟三』「神はあなたのために私に奔走させる」