文/中国の大法弟子
【明慧日本2021年1月6日】師父は「最後になればなるほど精進しましょう!」[1]とおっしゃっています。個人的には、今の善悪の戦いの中で最後になればなるほど、正念を発することが手放せなくなるのは理解していますが、それだけではありません。
私たちは皆、誰が神の選ばれた者であるかを知っており、神の選ばれた者は特別な使命を持っていますが、人間は悪魔を倒すことはできず、共産主義の悪魔を取り除くことは大法弟子としての義務であり、師父が私たちに与えてくださった神通力と正念を持っているからです。大法弟子は主役であり、この問題の方向性を決める根本的な要因です。世間の表れは大法弟子の修煉状態に現れてきます。 大法弟子、特に中国本土の弟子は目を覚まさなければなりません。仕事に結果を求めるのではなく、法を正すために師父の手伝いをすることに気を緩めることはできません。
一、なぜマスコミに流されて信じる心を失うのか?
マスコミの報道から、大統領と彼のチームができることはほとんどやってくれているが、良い方向に進む気配がなく、自信を失っている人や自信に影響が出ている人が多く、絶望的な状態を見せ、正念を発することが形式的になってしまっているようです。私は妨害する大きな要因があると思いますが、1つは無神論であり、目で見たものこそ真実であるという概念を信じています。悪が大きいように見え、問題を分析するために人間の論理を使用して、「もうダメだ」という邪念が生じて、さらに正念がなくなります。その時、正念を発することはまだ有効なのですか?
実は、私たちは自分自身を見下しています。天目が見える人は少数派であり、修煉者のほとんどは、表面だけを重く見ているときに、主体としての真我は、その悪を取り除くための能力に制約されています。『轉法輪』で、師父はこう説かれています。
「本当に修煉しようとする人にとって、非常に易しいもので、高くて届かないようなものではありません。実際ここにいる多くの古い学習者や今回は来られなかった古い学習者は、すでにかなり高い次元まで修煉しています。わたしがあなたにこれをお話ししなかったのは、あなたに執着心が生まれたり、いい気になったりして、それによって、あなたの功力の向上が影響を受けるのを心配したからです。本当に修煉を決意した人にとっては、もし耐えることができ、さまざまな利益を前にして執着心を捨て去ることができ、そういうものに淡泊になれたら、こういうことを真に実行できれば、難しいことは何もありません。難しいと言う人は、こういうものを捨てられないからにほかなりません。功法を修煉すること自体はそれほど難しくなく、次元を向上させること自体には、それほど難しいところはありません。人間の心を捨てられないから、難しいと言うのです。なぜなら現実の利益の真っただ中で、心を捨てることは至難だからです。利益がすぐここにある時、心をどうして捨てられるでしょうか? 難しいのは、実際その点にほかなりません。人と人との間にトラブルが起きた時、そこに居合わせたわれわれがどうしても我慢できず、自分を煉功者として律することすらできないようでは、話になりません。わたしがむかし修煉していた時、多くの高人がこんなことを言ってくれました。「忍び難きは忍びうる。行ない難きも行ないうる」。実際その通りです。皆さんは帰ってからぜひ試しにやってみてください。本当の劫難に直面した時、あるいは関門を乗り越える時に、試してみてください。耐え難いものを耐えてみてください。乗り越えられそうもないと見えても、行ない難いと言われても、本当にできるかどうか試しにやってみてください。もし本当にやり遂げられれば、きっと『柳暗花明又一村』というように、眼前に新たな世界が開けることに気づくに違いありません!」
師父の教えから、今、どのような心理状態を持つべきかがわかります。
二、邪悪はすぐに崩壊させるべき
以下の添付文章「魔性を取り除く」は、2000年9月30日に同修が発表したものです。2000年10月5日に師父が評注が発表され、今日の私たちの行動にも関係しています。
上記の交流が法に基づいていない場合は、法を以って師としてください。師父、ありがとうございます! 同修の皆さん、ありがとうございました。
注:
[1] 李洪志師父の経文:『台湾交流会へ』
[2] 李洪志師父の著作:『轉法輪』
添付文章:
魔性を取り除く
【明慧日本2000年10月5日】少し前までは、私は邪悪に動かされず、邪悪と邪悪がもたらした悪影響に対して忍べばよいという態度でいました。私が正念を堅持していれば、邪悪を気にすることはないと思っていました。このような限られた認識は私の修煉、そして、法を正す過程および中国の現状の理解に反映されました。
私は、中国にいる悪勢力が邪悪であり、我々は正しいと認識し、真相を伝え、邪悪勢力の悪事を暴露すれば、十分であると思っていました。しかし実は、私は単なる平静な気持ちで邪悪の存在を認めているに過ぎず、それが忍であると思い過ごしたにすぎず、その背後には自分の消極的かつ不正確な態度があることを認識していませんでした。私は心の奥底から、邪悪は消滅されるべきで、存在すべきではないことを信じ、それを証明する行動の第一歩を踏み出せないでいました。
私は多くの思想業力に邪魔されました。私は、これこそが自分の固い意志に対する試練であると思っており、自分の主意識を強くするように与えられた機会だと思いました。私は襲われた思想業力をそのまま受け入れ、気持ちを落ち着かせて自分と思想業力とを区別するようにしました。私はその区別ができれば、師父がそれを消滅してくださると思いました。しかし、思想業力は断ち切れることなく、ますます湧きあふれてきました。実際、自分が目下の法を正すことに対する理解は、まさに思想業力に対する消極的な態度と同じでした。
自分はどうしても、積極的に邪悪を消滅することが過激な行為であり、善の心に相応しくない行為であると思っていました。すなわち、自発的に積極的に業力および邪悪を消滅する行為は、忍が足りないことと善の心が不十分であり、なぜならば、それらも生命であるからと認識していました。しかし、それは誤った認識であることに気づきました。
李先生は『道法』で、「『自然』が存在せず、『必然』には必ず原因があるということを皆さんははっきりと認識しなければならない。実際のところ、『自然』とは宇宙、生命、物質的現象について常人が解釈できぬため、無責任に自説を正当化するためのもので、彼らも『自然』そのものが何であるかに思い到らないのだ。こういった意識の影響で、皆さんはすべての苦難が必然的でこのようなものだと思ってしまい、どうしようもない消極的な状態が生じたのである」と言われました。
私は他の学習者と交流し、明慧ネットの文章を読み、そして師父の新経文を読んでから、自分の理解を改めました。
私はようやく分かりました。我々は正しく、邪悪と区別するだけでは不十分であることを理解しました。邪悪は存在するべきではないことを、我々はすべての力を尽くして邪悪を消滅しなければならないことをはっきりと認識すべきです。私は再び、思想業力に襲われた時に、以前のように消極的な受け身にならなくなり、自分のすべての力を尽くして消滅するようにしました。思想業力の存在を認めませんでした。なぜなら、思想業力の存在を許せば、それは自分の魔性の現れであるからです。
私は自分が邪悪を消滅させようとする決心と力に驚きました。この気持ちが生じた時の私はダイヤモンドのように硬く強く、自分の一念で山を切り開けるような気がしました。私は「神の怒り」という言葉に対してさらに理解しました。それは人間の怒りではなく、忍耐が足りないことではなく、報復や復讐などではありません。それは公正であり、宇宙の真・善・忍に背き、宇宙に存在することに値しないものを正しく取り除く姿勢を示すものです。
改めて理解したことは、法を正す過程および法を正すことにおける我々の働きに反映しました。我々は以前の消極的な認識を許してはならず、消極的な態度で邪悪の存在を許してはなりません。消極的な態度でいること自体が邪悪を承認し、放任することになります。我々はいかなる口実でも邪悪の存在および存在する必要性があることを認めれば、それらが我々の思想および宇宙に依存します。我々は修煉において、自らの佛性を強め、魔性を取り除く責任があるのみならず、宇宙に存在している魔性を取り除く過程において自分達が尽くすべき責任を負わなければなりません。これこそがまさに法を正す過程でしょう。
我々自身またはそれ以外においても、積極的に大法を反対するすべての邪悪勢力を取り除くべきです。これは自分の修煉のためではなく、衆生に対する慈悲なのです。
◎師父評注
認識は非常に素晴らしいです。思想業力の現れと邪悪勢力が私たちにもたらした迫害に対して、私たちは人々に真相を伝えていますが、それらを放任し、消極的に辛抱しているのではなく、すべて積極的に魔を取り除くことをしています。しかし、考えと行動において、善でなければなりません。
李洪志
2000年10月5日