文/中国の大法弟子
【明慧日本2021年3月7日】『礼記・礼運』には、「食に対する欲望と性欲は人間の基本的な欲望である」と書かれています。 儒教では「礼を持って欲望の制止とする」と提唱しており、これらの欲は、古代から現代までの賢者が十分気をつければならないことです。 道教では、食に対する欲望と性欲を断つことができれば、寿命が延びるとされています。
つまり、食に対する欲望と性欲はどちらも人間の大きな欲望であり、中国古代の人は、これらの部分で常に自分を厳しく律していました。修煉者への要求はより高くなるばかりです。色欲について同修はたくさんの文章を書いており、この欲望を修めることには多くの注意を払っていますが、中には食に対する欲望には十分気を付けていない人もいます。この執着心を修めずに、多くの問題を引き起こし、非常に深刻な事態にまで発展しても、何が原因なのか分からない人もいます。
師父は『轉法輪』第六講で「色欲」の問題を説かれ、第七講では「肉食の問題」を説かれています。私は自身の修煉において、食欲を修めることは色欲より全く簡単ではなく、時にはそれ以上に難しいと感じました。 しかも、私たちはこの肉体を持っていて、毎日食事をしなければならないのですから、どのようにしたら修煉者の基準に達することができるのでしょうか?
『轉法輪』第七講の「肉食の問題」を最初から最後まで何度も暗唱して、この点における修煉者への要求が明確になってきました。本に書かれた修煉者の基準が明確になったことで、自分が基準を満たしていなかったことに気がつきました。
「食しても味わざれば、口その執着を断つ。做なして求めざれば、常に道中に居る。静にして思わざれば、玄妙を見みる可べし」 [1] という法理はどれほど明確でしょう、しかし自分はできていますか?
明慧ネットに掲載された記事によると、ある同修が最近、自分の体がどんどん太っていることに気づき、修煉者はこうあってはならず、大法弟子のイメージを損なってしまうと悟ったのです。これは大法弟子のイメージと何の関係があるのかと思う人がいるかもしれません。私は住んでいる街で新聞を配っていた時、通りかかった2人の若い男性がチラシにある坐禅している写真を見ても、ほとんど興味がなさそうに、新聞を取らずにすぐに通り過ぎていきました。しかし、そのうちの1人が少ししてまた引き返してきて、「そのチラシを1枚下さい。あなたがこんなにスリムなのはこれをやっていたからでしょうか? 私の母にも見せて、スリムになってほしいのです」と言ってきました。
ある時、新唐人の放送で、大法弟子たちが他の多くの団体とともに地元の大規模なパレードに参加していました。主催者に大法弟子チームについての印象をインタビューしたところ、「法輪功学習者(以下、学習者)の中には肥満の人がおらず、全員がちょうどいい体格で、法輪功を学ぶと健康への効果が目に見える」と言っていました。
私は修煉において、食に対する執着を無くさなければ、肥満だけでなく、胃腸、口腔、歯、消化器系全体の不調にもつながっていることに気づきました。「病業」という形で、修煉者の身体に現れます。さらに深刻なのは、法を実証することや、衆生を救い済度することに直接影響を及ぼします。ある同修は、正月休み期間に食べたいという欲求を抑えきれず、昼間は食べたくないが、夜は食べたいという激しい欲求に負けて、一晩中寝付けなくなり、朝も起きられなくなってしまい、一緒に公園に行って煉功ができませんでした。食に対する執着は、修煉者自身の状態への影響が非常に大きいのです。この問題の深刻さに気づかず、大したことではないと思うことこそ最も恐ろしいのです。
特に自宅でパソコンの前で仕事をしていると、この執着が仕事の効率を著しく阻害してしまうことがあります。口の中に何かを入れて食べることを抑制できないとしたら、それは欲望が邪魔をしていることになります。この強烈な欲望は絶対に自分ではありません! この欲望は実際に体の中に存在している物質であり、生きており、非常にずる賢く、あなたが弱っている時や、リラックスしている隙に乗じてあなたの体をコントロールし、もう食べられなくなるまで食べ続けさせます。体内で食べ物を消化するのに多くのエネルギーを必要とし、エネルギーの過剰な消耗は健康に悪影響を与え、長く続くと、寿命にも影響を及ぼしかねません。文頭で「食に対する欲望と性欲を断つことができれば、寿命が延びる」と言及したように、体のエネルギーを消耗しすぎず温存することで、長生きすることができます。人は食べ過ぎると、リラックスして休息したくなり、頭の回転も遅くなり、体もだるくなります。怠惰で眠くなり、この時点で精進する気力と、人を救おうという焦りが消えてしまうのも邪悪の手口の一つで、肉体から精神状態に影響して人を徐々に弱らせていくのです。
数年前、日曜日のグループ学法での休憩時間はとても短く、同修たちはもっと法を学びたいと熱望していたので、数分後にすぐにまた始めました。休憩中に何か食べ物を持ってくる人はほとんどいませんでした。 今ではよく食べ物を持ってきて、皆を誘って一緒に食べる人がいます。私自身も以前は、グループ学法は神聖で厳粛で、時間が足りないのに食事のことは考えられないと思っていました。しかし最近、日曜日に家を出ると、何か食べ物を持っていこうという考えが頭をよぎるようになりました。 食べ物を持ってくる同修に執着があると言うのではなく、持ってこなければ執着が無いということでもないと分かりました。この空間の中にこの物質があるので、このような現象があり、つまり修煉者が食べ物に対する執着が強ければ、この現象が現れてくるのです。
体は食べることを必要としていますが、「食しても 味わざれば 口その執着を断つ」[1]を実現するのはあまりにも難しいのです。 特に現代社会では、あらゆる種類の美味しい食べ物、お菓子、スナック菓子が溢れていますが、これは大法弟子たちが修煉するために旧勢力が設けた障壁であり、泥沼であり、この世の快楽に溺れて天国に帰ることを忘れさせようとしています。師父は『轉法輪』でも、喫煙、飲酒、肉食などの欲望について言及されているので、軽視してはなりません。
穀物などは、天地の精を吸収して成長し、人が食べた後に自然に精気になって循環し、体のエネルギーを補給しています。しかし、修煉者のエネルギーの補給方法は、普通の人のように食べ物だけではありません。修煉を続けていると、修煉者の身体が大きく変化し、エネルギーの補給にはごくわずかな普通の食べ物で十分で、本当のエネルギーは煉功と坐禅で非常に素早く補給されていくことに気がつきます。
少し前、朝第五セットの功法をやっている間、入定した状態に達しました。すると、宇宙のエネルギーが連続的に私の体に集まっているのをはっきり感じました。私の体は頭からつま先まで、熱くなり、煉功後、体がエネルギーでいっぱいになったのを実感しました! これは、双盤の重要性と、この座位で修行者の身体が自然にエネルギーを吸収することを悟りました。 そして、このエネルギーは、人間の食べ物に無いきれいなものです。また、たくさん食べてしまった場合は、煉功を通じて体の消化を早め、食べ物をエネルギーに変えることができます。読書や仕事、勉強をするのにもいいのです。
一度、日中に仕事をした後、体がとても疲れてしんどくなり、心も乱れて落ち着かず、全く元気がありませんでした。少し休んで横になって寝ようと思いましたが、その時は横にならず、坐禅をして心を静め、雑念を排除しました。すると、徐々にエネルギーが湧いてくるのを感じ、エネルギーが高まってくると、思想の中の雑念を排除することができました。体も自力で回復し始め、1時間半ほどして足を下ろした時には、気持ちが一新しました!
個人的な体験ですが、至らない点がありましたら、慈悲なるご指摘をお願い致します。
注:
[1] 李洪志師父の詩:『洪吟』「道中」