文/中国の大法弟子
【明慧日本2021年6月17日】中国社会では、一定の年齢に達すると様々な場面で「年寄り」と見なされます。人々は、そうした人たちを指し示す言葉に「老」を付けて区別し、例えば「老人」と呼びます。「老」を付けることには、何らかの敬意が込められています。
修煉者の間でも、同じようなことが見受けられます。しかし、修煉者は年齢で区別されません。年齢を気にしないし、「老い」という概念もないはずです。それにも関わらず個々の具体的な言動では、無意識のうちに伝統的な考え方、概念に習慣的に陥ってしまいます。年齢による区別が生じてしまうのです。年配の修煉者に対して特に注意を払い、寛容さ、理解、礼儀正しさ、謙虚さなどを表すことになります。
年配の同修も、こうした対応を受け入れています。彼らは、それがごく普通のことであり、そうあるべきだと感じています。しかし実のところ、それは常人の考え方なのです。私は、これが年配の同修を常人の領域に引き戻し、多くの問題と危険をもたらすと考えています。
年配の同修は、「老い」という意識に縛られてはいけないのです。そのような考えを捨てなければならず、受け入れてはなりません。「老い」は、私たち修煉者には何の関係もありません。
宇宙には成、住、壊、滅の4つの段階があり、常人には生、老、病、死があることを、私たちは法を学んで知っています。常人は何百万年もの間、このように生きてきました。誰もそこから逃れることはできません。
一方、修煉者は超常的な存在であり、常人レベルの理にとらわれることはありません。この理は、修煉者には通用しないのです。師父は、大法弟子の生きる道を変えてしまわれました。「老い」は、修煉者に無効なのです。
さらに法輪大法は、性命双修の功法です。私たちが修めた功(エネルギー)は、体のすべての細胞に蓄えられています。それを蓄え続けることで、私たちは「若さ」の方向へと変化していきます。ほとんどの古い学習者は、1999年以前から法輪大法を学んでいます。これだけ長きにわたって修煉してきたのに、どうして「老い」という言葉が出てくるのでしょうか?(ここでは真に修煉している同修を指しています)
私たちが「老い」を認識することは、それを望み、受け入れ、求めることと同じです。そのうちに、老いの症状が出てきます。耳がしびれる、目がかすむ、反応が鈍くなる、記憶がなくなる、手足が硬くなり動きが鈍くなる、さらに進むと病気になって死んでしまうかもしれません。これは危険なことではありませんか?
旧勢力は、言い訳をしてやりたいことをやります。人間の観念を変え、拒否し、否定し、取り除くことができなければ、師父や他の神々は助けることができません。あなたが自分で望んだことですから、誰も干渉できないのです。これは宇宙の法則なのです。ですから、年配の修煉者は、自分が年を取っているという概念を取り除くことが重要です。
私は70歳を過ぎています。大法を修煉して26年になります。私はそのような状態を経験し、教訓を得ました。大法は、私の人生を延ばしてくださいました。思考で「老い」を認めると、すぐに体に何か違和感を覚えました。自分は大法の修煉者だから影響はないだろうと思って否定していると、すぐに体調は元に戻りました。
師父は「実は物質と精神は同一のものです」[1]と説かれました。
私の理解では、物質と精神は同一なので、心の中の考えがすべて善良で正しく、法に則っていれば、体が受け取る物質的な信息も同様であり、体は正常に機能します。そうではなく体が受け取る物質的な信息がすべて悪いものであれば、体調は悪化するでしょう。色欲の関は非常に恐ろしく凶暴であることは、修煉者ならよく知っていることです。 しかし、睡眠中に現れようが、座禅中に現れようが、その瞬間に「私は大法弟子である」と思い出す限り、何でもないことであり、この関を乗り越えることができるのです。これが大法の力です。この問題は他の分野にも当てはまります。
師父は「一人の修煉者として、ほかでもない常人の環境の中で修煉し、自分を錬磨し、徐々に執着心とさまざまな欲望を無くしていかなければなりません」[1]と説かれました。
あるとき、私は20キロの米や農産物を肩に担ぎ、数キロにわたって歩いたことがあります。風が強くて寒く、家の近くまで来ると疲れて歩けなくなりましたので、一休みしようと思いました。しかし、「いや、急いで家に帰って12時の正念を発しなければならない。私は大法弟子だ、これくらい何でもないことだ」と思いました。すると私はすぐに元気になり、もう疲れることはありませんでした。一気に5段の階段を登り、家に着いて時計を見ると10分前でした。もちろん、このためには、より多くの法を学び、より多くの法を暗記しなければなりません。すべての考え、すべての言葉、すべての行為が大法に正され、改善されるべきです。また、功をよく煉り、怠らないようにしなければなりません。前者は次元を上げ、後者は本体を変えます。三つのことをすべて行わなければならず、どれも欠けてはならないのです。
私は歩いているとき、いつも足が地面に着いていないかのように軽く感じ、無重力状態のように感じます。歩くのが速いとは感じていませんが、隣を歩く人が大きく遅れてしまうのです。
私は1人暮らしです。自分のことは自分でやりますし、子供に迷惑をかけることもほとんどありません。物を買ってきてあげようとか、物を持ってきてあげようとか言われても、断っています。中国共産党の「ゼロ行動」(中国共産党のブラックリストに登録されているすべての修煉者に法輪大法を放棄させるための総力戦)で嫌がらせを受けても、子供たちはまったく文句を言いませんでした。私は彼らに、サインをしてはいけないと言いました。彼らは同意しました。
年配の修煉者が健康であることは、人々に法輪大法の素晴らしさを示すのに十分な証拠となります。これは大法を修煉して得た幸運です。誰が見ても全く明らかなことなのです。
個人的な体験なので、法に基づいていないところがあれば、同修の慈悲なるご指摘をお願いします、合掌!
注:
[1] 李洪志師父の著作:『轉法輪』
【編集者注:この文章は筆者の個人的な観点を代表しているものであり、正しいか否かについては筆者個人が責任を負うものとし、読者は自身で判断してください】