文/中国の大法弟子
【明慧日本2021年6月18日】最近「邪法を練る」まで法を暗唱しました。しかし、一段落目だけでも結構大変でした。午前中ずっと暗唱していましたが、それでも流暢に暗唱できません。このようなことは三回目です。
この段落の暗唱にここまで時間がかかったことについては、重く受けとめざるを得ませんでした。そこで心を込めて、一字一句を理解しはじめました。師父は「邪法を練るとは何のことでしょうか? それには次のような幾つかの形式があります。まず、もっぱら邪法を練る者がいます。どんな時代にもそれを教える者がいるからです。なぜそれを教えるかと言えば、その人が常人の中での名誉、利益、金儲けなどを追求し、そういうものにこだわっているからです。当然のことながら、このような人は心性が高くないので、功を得ることができません。彼は何を得るのでしょうか? 業力です」[1]と説かれました。
私には、今までずっと放下できていなかった利益心があります。最近は特に強くなったように感じています。普段いつも「どれぐらい貯金ができるかな」と考えがちです。そしてその利益心は、非常に狡猾で隠れています。常人と同修から見れば、私はかなり精進している状態に見えるでしょう。しかし表面的には、法を実証することと同修を救うためにお金を少しなら出せるのですが、それと同時に「功徳を積んでいる」と考えてしまいます。お金を出すことが同修に知られないときも、「師父に知っていただければそれでいい」と心の中で思うのです。実のところ、この利益心はすでにとても強くなっています。なんと汚い功利心でしょう。修煉者として名利を求めれば、師父が説かれた邪法を練る人と何の違いがあるでしょうか。功が伸びないだけでなく、業力を得るのです。業を滅さず逆に求めるなど、修煉者と言えるでしょうか。このままで向上できるのでしょうか。
そして、非常に良くない顕示心もあります。同僚に真相を伝える時でも「ほら、私には信仰がありますよ。しかしあなたたちは志を持っていないでしょう」と顕示しようとします。売り上げが人より高いときは「私は競っていないけど、あなたたちよりも業績が良い」と考えてしまいます。ふと「私の名利心はこんなに強いのか」「衆生に対して根本的な慈悲も持ってないとは、本当に悪いことだ」と気づきました。
まだ名利をはっきり放下できていない同修の参考になればと思いまして、今日これを書いています。師父は時々刻々私達を悟らせ、速く次元を高めてほしいと願われているのです。今日はこの段落の法の暗唱によって、特に師父が悟らせてくださったと感じました。師父にご心配をおかけしました。
師父は、私達に古代の出家人の基準を教えてくださいました。出家人にとって、こうした基準は最初に達成されなければならないことです。一方、今日の私達は宇宙大法の修煉を始めたのに、物事に対して未練が多く、何も持って行くことができないと知っているにも関わらず、また修煉者に求めるものはないと知っているにも関わらず、執着を抱いています。これでどうして自分が修煉者だと言えるのでしょうか。
注:
[1] 李洪志師父の著作:『轉法輪』