文/河北の大法弟子
【明慧日本2021年6月27日】明慧ネットのある記事に、ある修煉者夫婦が料理にネギを使うことで激しい口論をしたと書かれていました。私は、なぜこのような些細なことで対立するのか、なぜ一歩引くことができないのか理解できませんでした。
私も同じようなことがありました。私は突然、ネギの匂いに敏感になってしまったのです。少しでもネギの香りがすると、耐えられずに吐いてしまうこともありました。
私はこの出来事を通して、自分が他の修煉者の問題を指摘する癖があることに気がつきました。実際に衝突の原因となった本当の状況は、見た目とは違うかもしれません。修煉者として、他人の問題を目にしても、それを批判すべきではありません。むしろ、自分の修煉を向上させるための機会とすべきなのです。このことを忘れなければ、すぐに改善することができます。
数年前、ある修煉者が厳しい試練の中にいて、地元の協調人が、私に助けを求めてきました。私は地元で大規模な支援を求めるべきではないと思い、その代わりに、彼の近くに住んでいる何人かの修煉者を手配して、昼間は彼と一緒に法を学び、正念を発してもらいました。夜は私が法を学び、正念を発し、自分の理解を彼と共有しました。私はこの配置が適切だと思いました。なぜならば、修煉者たちが毎日彼を助けることができ、しかも修煉者の数が多くないからです。結果はとても良く、彼の状態は改善されました。
しかし、協調人は、私の配置がうまくいかないと考えていました。彼女は、もっと多くの同修が行って、24時間体制で彼を助けるべきだと言いました。
私はそうは思いませんでした。私は協調人のこの考えに対して、自分の悟りについて話し、次のように言いました。その同修の状況に対して、同修ができるだけ早く改善し、向上してほしいと思う願望は良いことであり、最終的にはその効果が得られるかどうか、それは、この同修が目を覚まし、自分の問題を前向きに考え、立ち上がることができるかどうかが鍵となります。
私は、現時点では、この問題に参加する同修を増やすことは適切ではないと言いました。もし理解が違い、参加する同修が多ければ多いほど、干渉が大きくなり、関も大きくなり、全体の修煉状態や他のプロジェクトに影響を与えることになりますが、そうする価値があるでしょうか。
協調人は、私が彼女のやり方に反対しているのを見て、他の地域から数人の修煉者に彼に付き添ってもらうように頼んだのです。
その結果、他の地域から多くの同修がやってきて、この同修を助けてくれました。しかし、彼らの多くは、協調人の頼みを断りたくないから来ただけです。彼の状態を見て、彼の執着を知った彼らは、彼の問題について様々な意見を持ち、グループ学法の中で議論しました。結局、その同修は関門を乗り越えられなかったのです。
その後、自分を振り返ってみると、問題点が見えてきました。まず、協調人と意見が合わないときに、冷静に伝えられなかったことです。彼女が他の地域から何人かの同修に協力を求めたとき、私は恨みを抱き、ネガティブになってしまいました。
最も重要な教訓は、同修の苦難が自分の欠点を見るための鏡になっていることに気づかなかったことです。修煉の道には偶然というものはありません。自分の中に何か改善すべき点があるはずだと気づくべきだったのです。例えば、困難に会い苦しい同修は色欲に執着していました。私は自分にも色欲への執着があることに気づきました。彼の問題を自分の鏡として、自分の執着を見つけ、それを取り除くべきだったのです。
また、ある夫婦(同修)から、家族間の対立について助けを求められたことがありました。彼らはお互いに相手を責め、相手が悪いと思っていました。私は、彼らの争いに巻き込まれたくないと言いました。私は、「私たちは皆、同修ですから、常人の基準で物事を測ることはできません。誰が正しいか、誰が間違っているかを議論しても意味がありません。たとえあなたが100%正しく、私があなたを正しいと思っても、あなたは根本的な原因を見て、自分の心性を改善すべきです。修煉においては、葛藤の中で心が動かされている限り、修煉者としての条件を満たさないのです」と言いました。
師父は「修煉は自分を修めることであり、いかなる状態が現れても、自分の問題を探さなければなりません。皆さんに教えますが、常人の場合、問題に遭ったら、自分の問題を探すことができれば、この人は常人の中の聖人になります。大法弟子はいかなることを行なうときでも、困難にぶつかり、その解決策を考えるとき、必ず自分から探して、大法弟子と法を正すことに必要な環境の状態に順応すべきです。問題が現れたら、それは自分が法理とねじれてしまったからです。問題の所在を探し、ねじれている部分を解きほぐし、問題を整理して解決します。最も良い方法は、問題に出遭ったら、前へ前へと突っ込っこんではならず、追い詰めて解決を求めてはならず、心を放下し、一歩下がって問題を解決すべきです。(拍手) 問題があったら、すぐにあなたが正しいのか、私が正しいのか、これはあなたの問題で、あれは彼の問題で、私は如何に行なったかと責め合い、見た目では問題を解決しているかのように見えますが、実はまったく違います。見た目では理性的に見えますが、実はちっとも理性的ではなく、一歩下がって、心を完全に放下して問題を考えていません。冷静に、穏やかにトラブルから抜け出して、トラブルを見れば、はじめて本当に解決することができます」[1]と説かれました。
私は、家族間の争いでの経験を話しました。私が夫と喧嘩したとき、夫は「自分の不機嫌な顔を見てごらん」と言いました。私はそれを聞いてとても腹が立ちました。しかし、私は自分が修煉者であることを思い出しました。喧嘩をしたことは、自分を向上させるチャンスではないのか? と思った瞬間、体の中に温かいエネルギーが流れ込んできました。怒りの感情はすぐに消えました。
法に基づいてこの夫婦と交流してから、すぐに自分の問題に気づき、争いは解決しました。私は、彼らの問題を解決するために存在しているのではなく、彼らの行動を通して自分自身の問題を見つけることだと理解しました。彼らの葛藤は、私が家で抱えていた葛藤と非常によく似ていることに気づきました。彼らの問題を目の当たりにするまで、私はそれに気づかなかったのです。
あるとき、修煉者が、視力に問題があって『轉法輪』の文字が見えないと言ってきました。私は「私が見えますか?」と聞くと、「見えます」と答えました。私は「『轉法輪』の各文字の背後に無数に重なった佛、道、神が数え切れないほどいます。すべての言葉に大法の力があります。私が見える限り、あなたは『轉法輪』の文字を見ることができます。見えると信じればいいのです」と言いました。彼は「はい、私は大法を信じています。また読めるようになると信じています」と言いました。
数日後、私が彼を訪ねたとき、彼は嬉しそうに「私は再び『轉法輪』のすべての文字を見ることができました」と言いました。この経験から、私は師の法をより深く理解することができました。私たちが法をどれだけ信じているかによって、大法の力がどれだけ発揮されるかが決まるのだと思いました。師父が説かれたように「強い正念であればあるほど、大きな威力があるのです」[2]
注:
[1] 李洪志師父の著作:『各地での説法七』「米国首都法会での説法」
[2] 李洪志師父の著作:『精進要旨二』「同じく二言三言」