文/中国の大法弟子 若梅
【明慧日本2021年7月5日】
1、坐禅で足が痛い
師父は説かれました。「修煉とは、生命を成就させるということです」[1]
「生命を成就」の文字を見て、全身に衝撃が走りました。私は最初の頃、ただ修煉で精進すれば圓満できると思っていました。しかしこの法を8回学んだとき、自分の考えがとても狭く利己的だったことに気づきました。
私たちが三界に来たのは、師の正法を助け、衆生を救い、更に多くの生命を成就させるためです。三つのことを行い、自分の世界の衆生は未来の生命となり、私たちは自分の智慧を活かし、才能、金銭、肉身などの人の一切のものは人を救うために利用し、それはまるで自分の「持つもの」を放棄するかのようです。しかしこれらは元々誰が下さったものでしょうか? 大法が宇宙の全てを作り出し、師父が私たちの全てを賜って下さりましたが、これらは全て「生命を成就」するためのものです。常人の生活を過ごすためではありません。言い換えれば、私たちが自分で「持つもの」全ては、実際は自分のものではないのです。
修煉するようになって坐禅すると、長年ずっと足が痛くて落ち着きませんでした。突然に分かったことは、私はその「痛み」に執着しすぎていて、つまりは肉体に執着していたということでした。釈迦牟尼佛の法門では涅槃を説いており、最後には肉体を捨てます。最高に修めても、ただ如来の果位に過ぎません。しかし私たちの修煉には上限が無く、少なくとも肉体に執着はありません。私たちは何層も降りて三界に来ました。肉体はただ一つの媒体に過ぎませんが、肉体があるからこそ三界に留まることができ、人を救えるのです。師父は説法で、痛みの過程は消業の過程と説かれています。そこで私は黒色物質に言いました。「私たちが成就したとき、新しい生命になり、宇宙の基準に符合した生命になります(白色物質になる)。あなた達は自発的に大法に同化して、自分という生命とすべてを放棄してほしいのです」。すると足の痛みはすぐに緩和しました。
師父は説かれました。「しかし、法を正すなか、あなたはこのすべてを一新し、良くない部分を取り除き、良いものに変えようとするとき、旧宇宙の生命はそれを承知しなくなります。ですから、法を正す中であなたに妨害をもたらし、法を正すことを自分の思うように変えようと考えています」[1]
学法すると、「惜しむ」という三文字が顕現してきました。よく考えて見ると、手放したくない物は全て、修煉で取り除くものです。「不足」すら惜しんで取り除きたくないのなら、どうやって修煉するのですか! 痛みを捨て、黒色物質を捨て、それでこそ修煉です。捨てつくしてこそ得るのです。師父の『二〇一八年ワシントンD.C.での説法』を学んだことで、私は1時間の坐禅が楽になりました。
2、歯痛
中共ウイルスが拡散して数日経った頃から歯が痛くなり、数カ月がたちました。初めは、母との同居に慣れていないからだと思っていました。しかし症状が重くなりましたので、自分の内を探しました。そして母への情を見つけ、良いことを聞きたく思う一方で、特に人から執着心を指摘されたくない心を見つけました。すると数日間は良くなったものの、また痛くなりました。
そして分かったことは、私は「痛」を恐れ、「痛」を重く見ていたということでした。
師父は説かれました。「あなたが元へ戻りたければ二つの要素を備えなければならず、一つは苦しみに耐えること、もう一つは悟ることです」[2]
痛みを恐れるのは、苦をなめたくないからです。しかしもし苦をなめたくないなら、回帰することはできないでしょう。師父は説かれました。「苦を嘗めるをもって楽とす」[3]
私は自分に問いました。「あなたは楽ですか?」。しかし問うた瞬間も苦虫をかみつぶしたような表情であり、私は頬を覆い、やるせなくなりました! 楽でないなら基準に達していないのであり、言い換えれば法に則っていないということです。短時間の痛みであれば、常人の「気丈」で耐えられるかもしれません。しかし時間が長くなると、法で量らなければ乗り越えられなくなります。
それでは痛みを恐れないとはどういうことでしょう? 「忍耐」を「受容」あるいは「享受」にと変えれば、「痛み」に「楽」で向き合うことができます。私たちは皆知っていますが、この「享受」で消業できるのです! あなたの修煉で向上できるのです! 「一挙四得」なのです! 真に修煉する人であれば、旧勢力の按排を否定し、内に向けて探すと同時に、それに抵抗しません。私たちが知っているように「痛み」は幻なので、平然と「痛み」に向き合うのです!
3、「痛み」を否定
昔、あるプロジェクトを進めていたとき、修煉で今まで経験したことのない試練がありました。寛骨の部位の痛みが60日続き、最も酷いときは三日三晩眠れませんでした。表面の皮膚は以前と変わらず、少しの違いも見えませんが、まるでキリで削られるような痛みでした。昼間は片足を引きずり、いつも通り法を実証していましたが、数十歩も歩くとしゃがみ込んで休んでいました。夜はベットや床で、痛みでのたうち回りました。服は汗でびっしょりで、我慢の限界でした。そして頭の中では、真の私と偽の私が真正面から戦っていました。
偽の私「病院に行ってください、少し緩和されますよ」
真の私「あなた(自分)は神で、常人の医者がどのように神の状態を変えるのですか?」
偽の私「同修にこれは糖尿病の症状だと言われたでしょう。あなたの父親は糖尿病で足を切断し、片足を失い、最後にこの世を去りました」
真の私「法を得たばかりのとき、師父は私の身体を浄化してくださいました。何が『糖尿病』ですか。私とは何の関係もありません」
偽の私「実力がないならやろうとするな。自分の能力がどれだけか知っているのか?! まだ何のプロジェクトをするというのか。来年はもうこのような苦しみに遭わないように。他のことをすることも法を実証することではないか」
真の私「これは私の使命です。不完成でどのように師父に説明できるのですか?」
偽の私「あなたは明慧ネットの要求に従って行っている。他の人が認識していないだけだ」
真の私「無条件で内に向けて探すと、間違いは私にあります。旧勢力は私と同修の間に隔たりを作らないで。私はあなたに従わない」
真の私と偽の私は絶えず戦い、各種の良くない考えが絶えず頭に浮かびます。私は苦しみながら否定しました。これは旧勢力が私を引きずり下ろそうとしているのだと分かっていました。そのときは呼吸も困難で、一分一秒旧勢力と戦いました。
弟が雲南白薬(ウンナンビャクヤク)スプレーを買ってきて、痛みの部位に数回噴射してくれました。突然焼け付くように熱くなり、足の痛みが軽減されないだけでなく、心臓も苦しくなりました。(法に則っていなかったため)。私は急いで言いました。「私は間違っていました。師父、私は間違っていました」。バスルームに行って、シャワーで洗い流しました。
ある日の夜、これ以上耐えられずに私は師父にお願いしました。「2時間、眠らせてください!」。同修は止まることなく私のために発正念をしてくれていました。その夜は本当に2時間、ぐっすりと眠れました! 師父は本当に多くのことを私のために耐えて下さいました! 絶えず内に向けて探し、絶えず「心からの九文字」(法輪大法好、真・善・忍好)を念じると、時に少し緩和されますが、夜になると耐えられないほどになります。
長い間会っていなかった小妹同修が「偶然」にも私の家に来ました。私の状況を見て、「師父が私を派遣して下さったのでしょう。お姉さん、焦らないで。これからは私が毎日車で迎えに来て、あなたをプロジェクトにお送りします」。それを聞くと私はすぐに涙を流し、まるで家族に会ったかのようでした。自分の「悔しさ」を訴え、大声で泣きました(自分は強い人で、めったに涙を流さない)。小妹同修は言いました。「お姉さん、あなたはまた向上しました」。私は涙を拭いて言いました。「行きましょう。正しいことをしに」。それ以来、小妹同修は毎日朝ごはんを持って迎えに来てくれてました。そしてプロジェクトが終わり夜になると私を家に送ってくれました。
外地の同修は私の家に来て言いました。「心を広くして、執着せず、抜け出しましょう。私たちは自分のためだけでなく、プロジェクトのため、自分の世界の中の衆生のために耐えているのです」。私の度量を大きくすると、痛みもだいぶ軽くなったような気がしました。
師父は説かれました。「修煉者はトラブルに遭ったとき、それに耐えるべきです。耐えることができてこそ、真に昇華できるのです」[4]
プロジェクトに参加した同修は皆、様々な妨害を受けました。ある同修は手首を怪我し、小饅頭のように腫れました。ある同修は腹痛に、別の同修は歯痛になりました。しかしたとえそうであっても、同修の誰一人として妨害で法の実証が遅れたことは無く、毎日質と量共に確保されていました(プロジェクトには期限があり、また後続の作業がありました)。同修達は堅持し、私は心の底から敬服しました。旧勢力はプロジェクトめがけてやって来ており、私と同修が法をもって共通認識に至っておらず全体の漏れとなったことから、邪悪に隙に付け入られたのです。
漏れはどこにあったのでしょうか? 師父の法像に跪いて、師父に啓示を求めました。師父は私の頭に文字を打ち込まれました。「鋭い角」。鋭い角とは何でしょう? 自分の党文化の中毒はとても深く、独りよがりの心を見つけ、責任者の心、自我を実証する心、名を求める心、同修への情、闘争心、同修が協力しないことへの恨み、私心で心が狭く受け入れられない等を見つけました。私は自分に問いました。「あなたは師父を信じていますか? 大法を信じていますか? 同修を信じていますか? 自分を信じていますか? あなたは修して神佛になれると信じていますか? この魔難が本当に良いことだと思いますか?」
ではどのように全体を形成するのでしょう? 現在の次元で悟ったことは三つあります。一つ目は、補佐する立場に満足する、無条件で人に協力する、これも自我を放下する過程です。二つ目は、何かあれば相談する、独断専行しない、党文化の「強勢」を取り除くことです。三つ目は、謝ることが出来る、自分を最低の位置に置いて、大海のような気持ちで謙虚と平和の心で一切に対応することです。自分の間違いを謝るだけでなく、悔しさがあっても少しも恨まずに謝れたなら、それは向上の過程にいます。
プロジェクトが完成してから、私は大量に学法し、1日に4~5講学びました。足が痛くて座れず、跪いて学び、五式の功法も堅持しました。とくに第五功法では、足を上げると直ぐに汗が背中を流れ、身体が震えました。しかしこれも同修の言葉を借りれば、「痛ければ痛いほど足を組む」
足が痛くなって61日の朝3時頃、痛くて目が覚め、それなら発正念しようと掌を立てていると、全身がエネルギーに包まれました。身体と手が揺れて、なるべく動かないように制御しましたが、わずかな効果しかありません。それから股を見ると、一塊の黑色に赤の筋の紋様の岩石があり、その赤色の紋様はマグマのようで、比較的細く、真っ黒で呼吸しているように動いていました。私はすぐに師父に弟子を加持して下さるようお願いし、三弦の真火を賜り、それを燃やそうとしましたが、しかし力不足でした。私は「護法の神よ、早く来てください」と叫びました。
私の護法の神は竜でした。大小の一群の金竜で、これは師父が迫害初期に私に見せて下さったものです。当時、外で真相冊子を配布していたとき、恐怖心があり、常人の玄関に真相資料を置くだけで、心臓が喉から飛び出しそうでした。師父は夢の中で私に護法神の形象を顕現して下さいました。夢の中で、家へ帰る道を歩いていると、突然強風が吹いて、金の竜が天から降りてきました。一番大きいのは私の家の屋上に降りました。私の家は合わせて4ブロック、7階建てで、金竜の身体は収まらず、頭と尾は建物をはみ出していました。そのとき私は建物から数十メートル離れた場所にいて、金竜は頭を下にして私をアーチ状に囲み、非常に近く、はっきりと竜のひげ、竜の目、竜の鼻の上のシワを見ました。私の身体は小さい竜に囲まれ、彼らは皆立っていてました。それ以降、私の恐怖心はだいぶ取り除けました。
大竜が私の股部に火を噴き、その火が螺旋式に私の身体に到達すると、まるでドリルの刃のようでした。その「ドリル刃」は絶えず深く入っていき、一つ一つの空間、一層一層の無数の空間を突破しました。ある空間は小さくて、小龍が直接飛んで入っていき、やはり火を噴きました。どれほど時間が経ったのでしょう。一つの声が私に教えました。「もう大丈夫です」。私の股部の痛みが消えていました。単手立掌の手は双手合掌に変わっていました。師父ありがとうございます! 師父ありがとうございます!
60日の正邪の戦いで、体重が10㎏以上減りました。本当に師父に恥ずかしく思い、同修にも恥ずかしい思いです! 全体を圓容できず、あろうことか師父を信じ法を信じる上で、妥協していました。しかしそれでも師父はまだ慈悲で私を守って下さり、同修たちも無私で私を助けてくれました。師父の御恩に感謝いたします! 同修の皆さん、ありがとうございます!
注:
[1] 李洪志師父の経文:『二〇一八年ワシントンD.C.での説法』
[2] 李洪志師父の経文:『シドニー法会での説法』
[3] 李洪志師父の詩 :『洪吟』「その心志を苦しめる」
[4] 李洪志師父の経文:『ヒューストン法会での説法』
【編集者注:この文章は筆者の現時点での個人的な認識を代表しているものであり、同修の皆さんと切磋琢磨し、「比して学び比して修す」のためのものです】