文/山東省の大法弟子 姜国波(遺篇)
【明慧日本2021年8月13日】私の名前は姜国波、男性、1963年3月に山東省威海で生まれ、学歴は大卒、濰坊市の政法委員会の元官僚、官職は副県級でした。多くの若者と同様に、初めて社会に出たときは、善良で社会に役に立つ人になりたいと思い、将来への憧れを胸いっぱいに抱いていました。
一、善良を失い、人生の絶境に陥る
中国共産党(以下、中共)の「嘘、悪、闘争」の体制で腐敗が横行する中、知らず知らずのうちに、私も徐々に権利を利用してコネをつけたり、便宜を図ったりするようになり、他人からの賄賂も拒まずに受け取りました。周りから私は「偉い人」で、上司にも認められ抜擢されて、重要視されました。
故郷に戻ると、親戚が私のことを「正直で、やさしい」と褒めましたが、それは私にとって侮辱されたように聞こえました。ある時、数年も会っていなかった伯母が大勢の前で「私の甥は子どもの頃から正直で、おとなしい性質で、努力を惜しまない子でした」と言っている時、私はイライラして、途中で「おばさん、もう言わないで。それは小さい時の私です。今はそんなバカじゃない!」と興奮しました。伯母は訳が分からない表情で私を見ていましたが、目の前のこの甥が、昔の純粋な子ではなくなり、心が汚され、平気で嘘をつく人に変わったとは思ってもいなかったのす。
私の変化により、便宜を図ろうとする人は私に近づきますが、道徳基準の高い人や原則を守る人は私を軽蔑し、私から離れていきましたが、私にとってお金が手に入りさえすれば、他の事を気にしませんでした。
しかし、それから1年ぐらい経つと、まだ30代の若さで健康だった私が突然倒れてしまい、仕事をするのさえ困難になりました。悪事を働いた天罰かもしれません。
1994年3月のある日の午後、仕事が終わった後、私は自転車で幼稚園に息子を迎えに行きましたが、家に帰る途中、向かい風に遭い、自転車を漕ぎ続ける体力がありませんでした。仕方なく自転車を止めて路肩に座って少し休みました。「体に問題はないのか?」と不安を感じました。翌朝、病院に行って検査を受けると、肝炎どころか、肝硬変でした。私は大きなショックを受けました。家族は私の病状を知り、私の見えない所で何度も泣きました。義父は私に仕事を辞めて身体を恢復させるようにと勧めましたが、私はこのまま名利の舞台を退くことに心から抵抗しました。
当時の私は、肝臓癌に発展する可能性のある肝臓からの腹水の症状のほかに、初期の尿毒症の腎炎、肩こり、眩暈(めまい)、痔瘻、風に当たると涙が出る目の病気、体質遺伝による肺疾患など、数々の病気に苦しんでいました。まだ31歳なのに、顔や手は老人のようなシミだらけでした。
病気を治療するため、私は色々な病院へ行き、専門医から漢方医にまで診てもらい、最後は民間の治療方法も試し、たくさんのお金を費やしましたが、一向に効果が見えず、ますますひどくなりました。
私の体は顔も浮腫んで、顔色は土っぽく黄色くなり、汗も黄色でした。ある朝起きると、布団の白い裏地が汗で黄色い人間の形に染まっているのに気づきました。肝臓病がここまで進んだことにびっくりしました。人生の終わりを迎えるのは「もうすぐ」だと感じるようになり、しばしば眠れず、死の恐怖が頭から離れず、後の事を考えるようになりました。
それから半年後、57歳の父親も肺がんと診断されました。
二、幸運にも大法に出会い、新たな人生を迎える
1995年6月初旬のある夜、私は何をする気もなくベッドに横になり、歩んできた短い人生の道を振り返りました。若くして市級の政府機関に入り、せっかく副科長に抜擢され、これから素晴らしい人生が待っているのに、不治の病に倒れ、しかも誰もが恐れる感染病のために、さらに苦しんでいるのに、父親も肺がんを患い、危篤状態に陥っています。神は本当に私たち親子を滅するつもりでしょうか? 仕事も家庭生活もうまくいっていないなど、考えれば考えるほど、落ち込んでしまいました。そんな時、私はそばに置いてあった1冊の本をめくりました。
その本は『法輪功』(改訂版)でした。1週間前、警官である隣人が私に「読んでみてください。とても素晴らしい本です」と勧めたのです。気功の本だとわかり、興味がありませんでしたが、相手の好意を拒むことができないため、それをベッドの横に置きました。実は、以前に数種類の気功を習ったことがあり、気功の本もたくさん買いましたが、病気治療の効果は全くありませんでした。ですから、その本は、1週間も置きっばなしで、読みませんでした。しかし、なんとなくめくった途端、最初に目に入った文字に惹かれ、きちんと座って読み始めました。本の中には「人間としてこの世にやってくるのは容易なことではないのに、意地のために生きている人がおり、それはあまりにもそうするに値しないばかりでなく、あまりにも疲れます。中国語に、『一歩引き下がれば、世界が広々と開ける』という言葉があります」[1]と書かれていました。
その言葉に私は心を打たれました。子どもの頃からこのような考えがありましたが、周りの人から理解されず、無能力の言い訳に過ぎないと言われました。私は自分の考えを証明する力のある根拠を見つけることはできませんでしたが、『轉法輪』を読んで、やっとそれを見つけました。
私が本の中の煉功動作を真似してみると、全身に強いエネルギーを感じました。「これは素晴らしい功法だ」と直感で分かり、学ぼうと決めました。先ほどまで何をする気もありませんでしたが、本を読んで子供のように興奮し、服を着ながら大声で妻に「素晴らしい功法が見つかった、この功法を修煉する!」と言って、隣人を訪ねて学びたいと伝えました。
ちょうど翌日から、地元の法輪功学習者(以下、学習者)が李洪志師父の済南での説法ビデオを講堂で初めて上映することになっていました。私は自転車で行って参加しました。ビデオを見ていると、寒かったり、熱かったり、眠ってしまったり、イライラしたり、たくさんの反応がありました。そして、3日目から吐き気や下痢などの症状が出た後、2年ぶりに食欲がありました。その日、説法を聴いた後、空腹感がひどくて、帰る途中にうどん屋に寄り、久しぶりにお腹いっぱい食べて、それが、とっても美味しかったのです。当時はよく理解できませんでしたが、後になって、それは師父が私の身体を浄化してくださっていたと分かりました。
大法を修煉してから3カ月も経たないうちに、肝硬変や腎炎などの十数種以上の病気が良くなりました。特に浮腫、食欲不振、全身の脱力感という肝臓病の症状が完全に治り、B型肝炎ウイルスも消えました。それは、2019年6月に県級医療保健部門による血液検査を受け、発行された「健康証明書」で証明できます。病気のない身体になり、全身が軽く感じ、私は心の底から「李洪志師父が私を救ってくださいました!」と叫び、万古の機縁を見逃さず、しっかり修煉すると誓いました。
三、末期がんの父が大法を修煉し、快復して生き返る
私は法輪大法の素晴らしさをいち早く故郷の家族に伝えました。
1995年の7月頃から、両親も大法の修煉を始めました。当時、父親は末期肺がんに苦しみ、食事もできなくなり、絶望の中で死を待つしかありませんでした。しかし、大法を修煉することで奇跡が起こり、10月の連休に故郷に行くと、なんと畑に出て収穫をしていました!
70歳を過ぎた母親は煉功してからしばらくすると、30年ぶりに病床を離れました。以前は腰痛で洗面器すら持つことができませんでしたが、修煉後には、若者のように農作業が出来るようになりました。地元の農家は畑に井戸を掘って水を溜めます。ある時、母親は2杯分の井戸水をバケツで汲んで、家庭菜園に水を注ぎましたが、疲れを感じなかったそうです。当時、その事は村の「神話」になりました。かつて腎臓病、婦人病、片頭痛など数々の病気を患っていた「有名人」が、どうしてこんなにも元気になったのか? 村人はみな不思議でした。さらに信じられないことは、一日も学校に通ったことがなく、自分の名前すら書けない母親が、法輪功を学んだ後、16万字以上もある『轉法輪』をすらすらと読めるようになったのです。
私と私の両親に起こった奇跡は、現代科学の観点から説明することはできません。しかし、これは私が経験し、誰も否定できない客観的な事実であり、法輪大法は超常的な科学であることを証明するのに十分ではありませんか?!
四、「真・善・忍」を心に置き、誠実で廉潔な良い人になる
日常生活や仕事で、私は真・善・忍の要求に従って道徳基準を高め、利己心、闘争心、嫉妬心、怠惰、それに良くない考えなどを徐々に取り除き、人のことを先に考え、無私無我の境地を目指しました。
職場で、私は以前のように名利のために争うことをせず、心を正して誠意を持って人に接し、真面目に仕事に取り組みました。そして、真・善・忍に合ってないと気付くと、しないようにしました。1995年と1996年の年末の評価で、私は優秀と評価され、1997年の評価の点数が発表されたとき、私は1位でした。規則により3年連続で優秀と評価されると、給料は1ランクアップしますが、3人しか選ばれないため決定するのが難しいと知り、私は自ら他の同僚に譲りました。修煉する前は、毎年優秀を求めて争いましたが、毎年評価されませんでした。
1998年、35歳の私は副県級の幹部に昇進しました。自分は科長の中で最も若く、仕事の時間が最も短かったので、これは予想外のことでした。
私は幹部の管理を担当していて、1996年からは幹部の評価に携わりました。1997年の下半期、私は専門のチームを連れて七つの市、県、区を視察し、各地区の公安局長を考査しました。各地方から視察チームに贈り物を持って来ましたが、私にすべて拒否しました。某市での視察終了後、ちょうど日曜日だったので、地元の公安長官は車を派遣して運転手に私たちを家まで送りました。他の人を送った後、最後に私の家に到着すると、運転手は車から降りて、トランクから一つの箱を取り出して地面に置き、私の反応を待たずに、急いで車で走り去りました。仕方なく箱を家に持ち帰って見ると、ギフトボックスの値段は1500元でした。返すことも出来ないため、妻に濰城区の「希望プロジェクト」事務所に渡すように言いました。
1998年8月、私は市の4人のメンバーの視察チームに参加しました。チームはいくつかの市、県、区を視察し、検察院の上層部とそのメンバーを考査し、チームのリーダーは市のある部門の責任者でした。どの地区に行っても、私は法輪大法を修煉しており、贈答品を受けたり、飲酒したりしませんと説明し、自分の言動を通して法輪大法の素晴らしさを伝えました。
視察が約10日間ほど過ぎたころ、リーダーは私に「あなたの法輪功の紹介を聞き、最初はただ健康維持に効果があると思って、あまり深く考えませんでした。しかし、この数日、あなたと接する中で、法輪功は普通の功法ではないことに気づきました。われわれの立場で、酒を飲まないことは難しいけれど、できないわけでもありません。それに対して、贈答品を拒否することは遥かに難しい。上から毎日のように収賄してはいけないと言われても、本当に受けない人は何人いますか? 表で拒否しても、裏では分からないでしょう。この間、あなたの言動を見て、すごいなと思いました。『法輪功は真法だ』とあなたが言いましたが、確かに人を内側から変えることができます。それと対照的に、共産党は表面しか変えることができません。とても素晴らしい功法ですね! あなたがいない時、私たち3人は、法輪功修煉者のあなたに学び、これから贈答品を受けないことにしました」と言った後、仕事上の応対がなければ、自分も大法を修煉したいと表明しました。メンバーの1人の科長は、その時から大法の修煉を始めました。
日常生活や社会の中で、助けが必要な人に会うと、力を惜しむことなく援助しました。1996年から2000年まで、私は給料から数千元を使って、済南、安丘、臨朐などの貧しい小学生5人に定期的に送金したほか、彼らに、よく勉強し良い人になるようにと手紙を送りました。
五、1億人以上が大法を修煉し、学習者は主流社会に高く評価される
法輪大法を修煉することで、私は誠実で、善良で、正直になり、主流社会の人々や指導部から認められました。特に、何度も幹部に対する視察の過程で、私が贈り物を受け取らずに拒否し、原則を守ったことを賞賛されました。当時、組織部門の何人かの幹部は、私に大法の書籍と李洪志師父の説法録音テープを求め、自ら学びたいという人もいれば、家族や親友に薦める人もいました。
この時、35歳の私は、周囲の予想に反して、副県級の幹部に昇進し、自分自身も信じられませんでした。当時、全国的に3年連続して幹部の昇進が凍結されており、今回は解凍後の初めての昇進となったので、人数はわずかしかありませんでした。田舎出の私には、コネもなかったし、仕事の経験も浅かったのです。私が抜擢されたことから、当時の主流社会の大多数は法輪大法を非常に尊敬し、真・善・忍を修める大法修煉者を高く評価していたことが分かります。
李洪志師父は「法輪功が迫害される前、本当の中流、上流社会の人の半数は法輪功を練習しており、邪党は主流社会の人を反対の立場に立たせ、汚職幹部を社会の中堅にしたのです。ですから、あの社会は挽回できないほど腐敗したのです」[2]と語られました。
私の知る限り、迫害前、私の地域の市で法輪功を修煉している指導層の幹部がかなり多く、彼らのほとんどは人に知らせずに家で煉っていて、公の場に出ていません。私を通して秘かに大法の書籍や説法録音テープ、煉功音楽テープを求めた高級幹部が数十人もいました。その中には公安局のトップ、安全局のトップ、政治法務委員会のナンバー2など、重要な部門の主要な指導者が含まれています。
1999年3月、ある市級の現職幹部が部下を通して私に会い、私の紹介を聞いた後、大法の書籍と説法録音テープ、煉功音楽テープを求め、自分で学ぶと言いました。また、ある女性の市級部門のトップは、すぐに法輪功の修煉を始め、1999年の初め頃に、何度も自宅で私と修煉について交流しました。法輪功を修煉する県級以上の幹部はさらに多かったのです。
当時、いくつかの地方で、指導層幹部の大法修煉交流会が開かれ、修煉体験を交流するように私を招待しました。1997年10月、私と他の4人の同修はH地区の主要幹部を対象とした小規模な大法修煉交流会に出席しました。私たちは十数人の県級の幹部らと常任委員会の会議室で、修煉について切磋琢磨しました。1998年12月の日曜日の午後、私は別の地域で開催された中規模の交流会に招かれました。その交流会で、私のほかに、省級の劇団団長、司法系統の全国的有名な書き手、キャリアが長い研究者、大手国営企業の責任者など5人が相次いで修煉体験談を発表しました。主催者によると、400人以上の参加者の中に、県級以上官僚が220人以上いました。1999年4月、私はL市に招待され、約7000人が参加した交流会で自分の修煉についてスピーチをしました。当時、多くの有力官僚が会議に参加しました。
六、純粋な山村の人々は自分たちの行動で、大法修煉者に敬意を表した
1998年11月末、私は一時的に官庁を離れ、青州市廟子町(副県級の町)の町党委員会の書記に任命されました。そして、貧困援助チームを率いて、ある山村に滞在して改善に取り組みました。期間は1年半でした。村に住んだ後、自由に使える10万元の貧困援助金がありましたが、私は主導して自ら食事代を支払うなど、村人の貧困改善のために力を尽くしました。
村の人たちは、私たちが確実に取り組んでいる姿を見て、徐々に私たちを家族のように信頼しました。春節を過ごして村に戻ると、村の幹部と村民が村の入り口に立ち、爆竹を鳴らして迎えてくれました。半年も経たないうちに、貧困援助チームは村に数キロメートルの道路の修復を支援したほか、村人に水道水を提供し、それに、十数の特別貧困世帯に貧困脱出のプロジェクトを実施しました。地元のテレビ局や新聞社はこれについての宣伝報告をしました。
この間、10万元近くを投資する水道事業の入札のために、ある事業主は夜、車で150マイル以上も走って私の家を尋ね、贈り物をしました。私は彼に「私たちは調査した結果、あなたの会社に任せると決めました。贈り物を持ち帰ってください」と言いました。その話を聞いて、事業主はほっとした表情を見せ、私に一定の歩合を渡すと言いましたが、私は拒否しました。私の家を去る時、事業主は「私は知人から、姜書記が法輪功を修煉しているため、贈り物を受け取らないと聞きましたが、正直、あまり信じられませんでした。しかし、今回の事でそれを確信しました」と言いました。
水道工事を行っている時、私はよくこの事業主と接することがありました。工事が終了した後、ある日、事業主はみんなの前で私に「私は50歳以上になって、たくさんの役人や官僚に会いましたが、姜書記が一番です」と親指を立ててほめてくれました。私は笑いながら「それは言い過ぎです。法輪功を修煉していなかったら、このように出来なかったと思います」と言いました。
1999年7.20、江沢民を中心にする中共が法輪功への弾圧を引き起こしました。学習者が迫害され、師父が汚される中、無実を訴えるために、私は北京に陳情しに行きました。しかし、私が地元に戻って来ると、即座に停職処分を強いられ、私が貧困援助中の町にも、山村にも行かせませんでした。
1999年後半のある夜、前述の村の書記から突然電話が来ました。「姜書記、明日私と村の幹部らが官庁に行って陳情する予定です」と言いました。私は少し驚いて、何があったかと尋ねました。彼は「姜書記が最近村に来ておらず、何が起こったのかと思っていましたが、やっと姜書記の事を聞きました。村の人たちは皆腹を立てています。姜書記のような良い幹部をどこで見つけることができますか? 姜書記は何も違法なことをしていませんし、ただ法輪功の素晴らしさを伝え、真実を話しただけです、何が悪いのですか? 彼らは姜書記にとって、とても不公平です。今日、村の支部と村の委員会が会議を開き、それについて話し合った後、明日全員で官庁に行って、姜書記が村のために行った良いことや村の人々の意見を伝え、彼らに姜書記を復帰させるよう、陳情することを決めました」と言いました。
村の書記は少し興奮し、他の感動的な言葉も言ってくれました。私は、村の幹部が私のために陳情すると、彼らに不利になることを心配しました。私は村の書記に感謝の意を表すとともに、電話で彼らの陳情を止めました。
1999年末のある日、元同僚が停職処分中の私と同行して、前述の町に車で私の荷物を取りに行きました。純粋でやさしい村の人々は、私にとても暖かくしてくれました。
大雪の中で、村の幹部たちは私を行かせず、村の小さな食堂で昼ご飯を招待してくれました。村の書記は涙ながら歌を歌って、私を見送りました。昼食後、荷物をまとめて車に乗り込み、私は窓ガラスを押し下げ、風と雪の中に立っていた人々に別れを告げました。その時、村の書記が急いで私の手を取り、車を追いかけながら「姜書記、気をつけてください!」と叫びました。
七、「真・善・忍」の信仰のため懲戒免職され、真実を伝えたため拷問を受ける
法輪大法は性命双修の功法であり、心性を修めることを第一にします。私は師父の教えられた法理に従い、絶えずに真・善・忍の宇宙特性に同化し、確実に自分を修め、利己的な心や、貪る心、ずる賢い心、名利心、怠惰、虚偽、悪、そして暴力など良くない心と執着心を取り除きました。
現実と生活の中で、私は特に噓をつかず、ごまかしをしないように自身を律しています。しかし、現在の中国では、それは難しいことで、特に政府機関の官僚にとってなおさらです。修煉する前の私も、中共の無神論や進化論、闘争学の洗脳で、虚偽と嘘を「腕前」と「才能」だと信じ込んでいました。中共は政権を獲った日から、虚言を自分たちの「生命線」と見なし、本当の話を言わせず、真実を伝えるなら、死ぬまで追いつめられます。
1999年7月、江沢民は中共と互いに利用し合い、宇宙の正法である法輪大法対して気の狂ったような迫害を始めました。私は20年以上大法の受益者として、どこにいても、どんな圧力と誘惑に直面しても、正々堂々と、穏やかに真実を伝え続けてきました。私は自分の経験した事や把握している法律知識で、私を迫害した人も含めて、人々に「法輪大法は素晴らしい! 法輪大法は千年も万年も会えない高徳大法であり、決してX教ではありません! 法輪功の迫害は完全に間違っていて、それは違法です。真・善・忍の修煉を絶対に放棄しません!」と伝えました。
私は前後5回北京に陳情に行き、師父と大法のために無実を訴え続けました。長年にわたって、私は前後して13回も連行され、不当に2回の労働教養を強いられ、懲役5年の不当判決を下され、3万元余りを奪われました。さらに、電気ショックや「鉄の椅子」に縛られ、「ドラゴンベッド」に手錠をかけられ、「虎の椅子」に座らされ、有毒物質を飲まされ、唐辛子水を注がれるなど、77種類もの拷問を受けました。また、拘置所、労働教養所、刑務所で、39回も拷問されて死にそうになりましたが、私を変えることはできませんでした。
過去を振り返ると、苦痛、圧力、そして困難の中でここまで歩んできました。私の心にはいつも光と喜びに満ちていて、苦しいと思ったことはありませんでした。同修を含む周りの人々に「あなたは修煉を苦しいと思いますか?」と何度か聞かれました。私は「喜んでいるのに、どうして苦しい気持ちになるのですか?! 私は最も適切な年齢で、何千年も得難い法輪大法に出会ったことが、最高の幸せだと思っています」と答えました。
結び
私が話した大法修煉の体験は、李洪志師父と法輪大法の無辺な威徳の万分の一も反映していません。しかし、皆さんは私の体験談を通して本当の修煉者について認識し、中共の噓偽りの宣伝を見極めることができます。どちらが正しいか、どちらが邪悪かを認識し、法輪大法に対する誤解を心から排除すれば、明るい未来を持つことができます。それが私の心からの願いです!
(2020年8月31日執筆)
注:
[1] 李洪志師父の著作:『法輪功』
[2] 李洪志師父の著作:『各地での説法十一』「2010年ニューヨーク法会での説法」