文/李天童
【明慧日本2021年9月7日】(読者推薦)申公豹という人物はかなり特殊なようで、『封神演義』の中の仙縁を失った神たちのほとんどが、彼に引きずり込まれてしまったのだ。しかも、申公豹は本当に忙しく、まったく暇がない状況であった。
申公豹が人をかき集めることができる理由は二つあり、一つ目は口がうまいこと、もう一つは、多少の功能を持っていること(そうでなければ他人に影響を及ぼすことはできない)で、また、彼は正真正銘の玉虚宮の弟子でもあるからだ。
ひとつ不思議なのは、姜子牙が行っていることは自分のためではなく、今の言葉で言えば、三教の神封じの代理人であるということだ。申公豹は姜子牙と仲が悪いと言って、姜子牙を邪魔していたが、これは師父と三大宗教に反対したことに等しいのではないか? この申公豹は本当にかんしゃく持ちの主であり、いったん怒ってしまえば、うっぷんを晴らすために何でもやり出し、つまり、ものすごく自己中心になることである。この極端な自我は人を惑わすこともあり、それは人を陥れることになるのだ。
しかし、なぜ玉虚宮は彼のやりたいようにやらせ、放っておいたのだろうか。
実は『封神演義』の第七十二章では、申公豹が玉虚宮に連れ戻されたことがあった。その時、申公豹は危うく姜子牙を殺すところだったが、玉虚宮は彼を一見軽く注意しただけであった。申公豹が誓いを立てた後、元始天尊は彼を解放したのだ。しかし、申公豹は一つの教訓も学ばず、師父の慈悲と自分の誓いを真剣に受け止めず、相変わらず今まで通りで改めなかった。
しかし、本の中では、申公豹を解放することは、まさに神になれない者を集めるために利用していたことが示唆された。誰も申公豹に邪魔をして欲しくないが、彼をどうしても邪魔にしなければならないのならば、逆手にとって好きなようにさせたのだ。三教はすでに弟子たちにすべての利害関係を明らかにしているので、それでも彼の話を信じてついて行くのであれば、即ち成就できない人たちである。
彼の美辞麗句に騙されても、彼の偽善に惑わされても、あるいは彼の言葉に刺激され罠に掛かったとしても、いずれも心が動じることになり、それはきっと動揺される要素があるからだ。しかし、この動揺してしまった部分は、神を封じる事において、神の基準に達しておらず、不合格なところといえる。不合格というのは、神になることはできないことで、この点は過去においても非常に明白である。
もちろん、悪事を働いたのは申公豹自身なので、万仙陣が過ぎれば役立たずであり、誓いが果たされ、本当に捕まえられ北海眼に閉じ込められたのである。
申公豹は元々仙人だったが、「私(し)と怒り」のために自分を台無しにしただけではなく、大勢の人たちを駄目にした。嫉妬心に操られ人々を惑わしたこの役柄は、本当に演じてはいけない。他人を害するだけではなく、自分に害を与えるようなことは、本当にするべきではない。
そもそも、姜子牙が師父に与えられたことを成功したら、同門弟子としての申公豹も恩恵を受けることになる。姜子牙は能力が足りないのであれば、彼を助けて成功させればいいのに(多くの神々がそうしていた)、なぜ彼と争ったりしなければならなかったのだろうか。考えてみれば、それは「自分が不公平だ」という嫉妬心があるからだ。また、内心では師父を尊敬せず、法を信じない要素があるからではないか(これは致命的なことだ)。
正しい道と邪な道は、時には一念の差しかない。修煉者に嫉妬心や闘争心があれば、うっかりして申公豹のようになり、他人を妨害してしまうこともあるかもしれない。自分は能力が高いと思うほど注意する必要がある。最も重要なことは、どのように気づくか、どのように修めるか、どのように改めるかを知ることであり、法がすべてを制約していることを忘れてはいけないことである。 もし独断専行し、遠くまでずれてしまえば、本当に申公豹になるかもしれない。申公豹の役柄が、今、現れたら、恐ろしい絶望的な道に行ってしまうのだろう。