文/中国の大法弟子
【明慧日本2021年10月25日】私が今日、皆さんと交流したいのは、大法弟子は自分やお互いを見下してはいけないということです。なぜならそれは、今後の道をしっかりと歩めるかどうか、お互いに協力して全体を成し遂げるかどうかと関わってくるからです。
一、大法弟子は自分を卑下してはいけない
ある同修から「長年にわたって自分や家庭内の魔難がとても大きい。自分自身の業力が大き過ぎるのではないか。自分は元々修煉者の器ではないのかもしれない」と聞いたことがあります。何度も挫折し、打撃を受けたので、もう修煉を続けられないと感じているのです。また、多くの同修は、いつも自分を卑下する心が消えず、その人心をなかなか取り除けません。自分はみっともない人間だと思い込んでいます。これは、法を正す修煉の道のりに大きな障害になりました。
実際、法を正す時期の大法弟子になるのは簡単なことではありません。 自分を卑下するとき、以下の2つの状況があります。
1、自分を卑下するのは、この法門の修煉方式と内包に正しく対処できていないから
私たちは今、あらゆる複雑なトラブル、欲望、妨害および旧勢力が押し付けた迫害の中で、明確に主元神を修煉しています。これは副元神を修煉する全ての方法とは全く違います。修煉の過程で基準に達した部分があれば、すぐに師父によって隔離されます。残りの部分は、引き続き修煉しなければなりません。この残りの部分は、間違いなく修煉できていません。よって、取り除かれていない七情六欲や、様々な人心が必ず現れます。ならばそれらが現れたときに取り除くことが前提となるのではないでしょうか?
師父はこのように説かれています。「これに対して、われわれはねらいを定めて、本当にその心を指摘し、その心を取り除くわけですから、修煉がきわめて速いのです」[1]
ある種の執着が現れた時、それは指摘されているのではないでしょうか。それが現れたら、今までその人心がまったく取り除かれていないことになるでしょうか? それは糸のように、大部分は切り取られていました。残りのわずかな部分は、今までと同様に見えたとしても極めて少なくなっています。これでも大法弟子が修煉していないと言えるのでしょうか。
残された一部の人心があってこそ、私たちは人類の表面的な社会形態を破壊しないように、常人社会の中で修煉し続けることができるのです。絶えず残りの部分を修煉してより高い次元へと突破し、最後の圓満に至るのです。表面上あるいは過去の観念から見ると、この大法弟子はずっと人心を取り除いておらず、駄目な人間のように見えるかもしれません。しかし修煉できている部分は、すでに新宇宙の異なる次元の王や主になっているかもしれません。ですから、旧宇宙の誰かが新宇宙の王や主の人間の一面を迫害したとすれば、大法や法を正す時期に認められるはずがありません。旧宇宙の生命が自分をいくら偉いと思っても、この時点ですでに危険に晒されているのではないでしょうか。さらに重要なのは、大法弟子は無数の生命を救う唯一の希望であり、師父の弟子であるため、いかなる生命も支配する資格がありません。誰かが介入してしまうと罪になります。大法や、法を正すこと、大法弟子に正しく対処できない旧宇宙のすべての生命は、極めて危険です。
この法門の修煉方式と内包をはっきりと認識でき、正しく対処できれば、私たちが自分を見下すことはなくなると思います。
2、自分を見下すのは、法を正す時期の修煉の難しさが分からないから
それに加えて、大法弟子は、この最も複雑で腐敗した末劫の乱世で修煉し、風雨を伴うデコボコの道で師父に従って今日までやってこられたのです。非常に素晴らしいことだと思います。真の大法弟子の誰もが、今日まで簡単に歩んできたわけではなく、数え切れないほどの苦難と困難を乗り越えて来たのです。様々な原因で迫害を受け早くに逝ってしまった同修も、師父に圓満を認められ、特別な空間で法を正すことの終わりを待っているのです。ですから、私たちは師父と大法を全面的に信頼しなければなりません。過ちを犯した大法弟子は、この機会と時間を大切にし、しっかりと自分を修め、損失を補わなければなりません。それは、自分の最高の位置に戻り、多くの衆生が救われるかどうかにかかっているからです。
歴史上のすべての修行はどれも容易ではなく、苦しいものです。修煉者は生死や人心を捨て、様々な魔難を乗り越え、耐え難い孤独を克服する強い意志と信念を持ち、最後まで歩むことが必要であったと私たちは知っています。 私たち大法弟子の多くは、千万年もの輪廻転生の中で何度も修煉を重ねてきました。しかし、私は現在の法を正す時期の修煉が最も難しいと感じています。なぜなら、歴史の中で今日ほど複雑な環境はなく、人類の道徳がこれほど退廃したこともありません。「無神論」、「進化論」、「党文化」が人々を毒害し、惑わしたことは歴史上にないのです。人類の社会環境全体で、神の存在に対する認識がこれほど低下したこともありません。同時に、私たちの修煉は法を正すことと結びついているので、私たちの個人修煉が無数の宇宙の生存と消滅に関わっています。無数の異なる次元の衆生の腐敗堕落と業力があるため、旧勢力による邪悪な按排と破壊があります。旧宇宙の上から下まで修煉者に対する様々な妨害も多く、あまりにも大きいため、それを見た生命も驚くほどです。旧宇宙の高次元の多くの生命から見れば、大法弟子がこのような環境で修煉して抜け出すことは本当に難しく、ほとんど不可能と思われているかもしれません。
また、今の業力は確かに大きすぎて、人類は普通の生活で毎日絶えず業力を作っています。様々な腐敗した社会現象によって作られた業力は言うまでもありませんが、中国共産党が大法を迫害することによって無限の業力が作られ、法を乱す様々な現象によっても業力が作られました。旧宇宙の異なる次元の旧い観念が取り除かれていないため、法を正すことを妨害し、同様に無辺の業力を作り出しました。末刧の最後、旧宇宙と人間世界の業力は想像を絶するほど大きくなっています。もし師父が法を正さなければ、旧宇宙と人間世界はとっくに壊滅されていました。
高次元の生命から見れば、この三界と人間世界は非常に汚く、業力の波と恐ろしい大きな染め物がめであることを、私たちは知っています。ここにやって来たいかなる生命も、迷いの中で修煉しなければなりません。迷いの中にいるから、私たちにこの虚像をもたらす肉眼が与えられました。私たちに見せられたのは青空と太陽で、「業力の波」ではありません。そのため、多くの人はこの人間世界を楽園のように思う存分に楽しんでいます。悟らずに波に任せ流れてしまい、救われることなく、あるいは万古の修煉の機縁を失い、生命の破滅へと一歩一歩向かっているのです。
大法弟子として、私たちの多くは天目が何も見えない状態で修煉しているので、世間の偽りの仮相に惑わされ、誘惑されやすく、真実が見えません。以前、私はある夢を見ました。そのハッキリした夢は、私に世間の真相について一定の認識を与えてくれました。その夢の中では、人間世界全体がアスファルトのような、あの非常に粘り気が強い黒い物質に包まれていて、それを見て恐ろしい気持ちになりました。それは、この空間の一部の真相かもしれません。この恐ろしい真相は私たちには見えないので、人々はここが良い場所だと思い込んでいますが、高次元の生命から見れば、私たちはアスファルトのような恐ろしい物質に浸かっていて、一分一秒でも情と業力の中に浸され、汚染され、包まれているのです。この環境では自分の本性を見失いやすく、ひとたび名利情の果てしない苦しみの海に溺れてしまうと抜け出せなくなり、生命が完全に消滅されることになります。だからこそ、歴史上の無数の高級生命は、あえて来る勇気がなかったのです。
この環境で私たちがずっと冷静な状態を保つのは、極めて難しいことではありませんか? なぜ私たちは、時に名利情の現れに誘惑され、あらゆる人心や執着、欲望に振り回されるのでしょうか。それは、私たちは常に情の中に浸され、汚染されているからです。ちょっとでも緩むと、考えがすぐに流れてしまい、永遠に欲望の海に沈んでしまいます。
このような状況下での修煉は、最も難しいのではないでしょうか? しかし、このような状況下でこそ私たちの昇華は、最も速くなるのです。 実際、根本から言えば、私たちの昇華と功の伸び速さは、過去のすべての修煉者の想像よりも速いのです。なぜなら、私たちは、師父が宇宙の根本的な大法で自ら救い済度した生命だからです。
ですから、自分を卑下してはいけません。実は、それは意志の問題でもあり、自分の大きな使命と責任を認識していないということです。自分を卑下することなく、たとえ一人の人間だけを救ったとしても、あなたはその人と、その人に対応する無数の衆生の唯一の希望なのです。
二、大法弟子はお互いに見下してはいけない
私自身のことを振り返ってみると、長年にわたって多くの同修を見下してきましたし、同時に多くの同修からも見下されてきました。私たちがお互いを見下していたのは、他の生命と同じように、まだ修煉できていない大法弟子の人心の現れに「惑わされて」いたからです。同修の不足に対して、私たちは自分たちの法門の修煉方式と内包を正しく理解していないのです。
大法弟子の修煉できている一面を見ることができるのは新宇宙の生命であり、旧宇宙の生命は見ることができません。もし見ることができれば、それは新宇宙の生命になります。私たちは旧宇宙の迷いの中におり、しかも鈍い肉眼を持っていますので、同修の一時的な良くない現れに惑わされてしまうのではありませんか? 多くの場合、私たちは「どうして彼(彼女)はこのようになっているのだろうか?」と、考えてしまいます。
また、何千年もの輪廻転生の中で、旧勢力によってどれほどの深い恨みを押し付けられたのでしょうか。数え切れないほどの恩怨や、お互いに命の借りがあるかもしれません。それが原因で、会う度にお互いが傷つき、訳の分からない怒りを感じるのです。しかし、それは私たちの本意ではありません。私たちは高次元で誓約を交わした時、お互いに見下していたのでしょうか。
ここで私は『あなたのために来た』という映画を思い出しました。神様である無為尊者と青燕は天上で聖なる縁を結び、共に聖王と一緒にこの世に降りて、衆生を救い済度します。天上にいる時の2人はとても神聖で荘厳であり、身体から美しい光を放ち、お互いを理解し、尊重していました。
しかし、現世で夫婦になった2人はよく喧嘩をしていました。無為尊者から転生した劉大為は、青燕から転生した呂春燕を殴り、怪我だらけにされた呂春燕は実家に逃げていました。2人は喧嘩だけにとどまらず、お互いに見下して離婚しそうになりました。天上ではあれほど賢く神々しい無為尊者は、人間世界では周りに嫌われるヤクザになりました。
私たちは映画を見ていて、彼の本当の姿を知っていたので、迷いの中で悪いことをしている彼を、それほど見下しません。師父は、大法弟子一人一人の真の源を知っているので、いつも私たちの良い一面を見て下さり、良くない一面を見ないようにされています。ですから、師父は私たちを非常に大切にしていて、一人も残さないように、どんなに苦労をしても私たちを圓満成就まで救い済度しようとしています。
ですから、同修を見る時、生命の本源や修煉の角度から考えないと、具体的な怨念やトラブルの中にとらわれやすく、抜け出せなくなってしまいます。同修の間で人間の良くない一面に惑わされ、お互いを見下して対立してしまうと、一つの全体を成し遂げることができません。これこそ、邪悪が最も喜ぶことではありませんか。邪悪は大法弟子の間にさらに隔たりを作り、個別に破壊し、衆生を壊滅します。大法弟子はお互いを見下してはならず、それはお互いを最も傷つけることになります。
私は最近になってこの問題に気づき、同修を見下す考えや悪い念をすべて否定するように心掛けています。同修を見下す考えが浮かんだときは、無為尊者と青燕のストーリーを参考にして、自分に注意喚起します。今日私たちが知っている同修は、すべて縁によって結ばれており、師が法を正すことを手伝う誓約を天上で交わしたとき、私たちはお互いを見下したでしょうか? そんなことは絶対に不可能です。私は同時に、発正念でそれらの良くない考えを取り除きました。すると、同修を見下す気持ちはどんどん薄れていきました。見下す心がなくなった時、改めて同修を見ると、周りの一人一人がとても素晴らしく、みんながそれぞれ良い一面を持っており、お互いに補い合えることがわかります。同修の一人一人は、私にとって大切で尊敬に値する存在です。
個人の認識ですので、ご参考になれば幸いです。不足の点があれば慈悲なるご指摘をお願いします。
注:
[1] 李洪志師父の著書:『轉法輪』
【編集者注:この文章は筆者の現時点での個人的な認識を代表しているものであり、同修の皆さんと切磋琢磨し、「比して学び比して修す」のためのものです】