文/河北省の大法弟子
【明慧日本2021年11月18日】私は特別支援学校の教師で、女性で、58歳です。私は1997年に大法の修煉に入り、雨にも風にも負けず22年間の修煉の道で、大小さまざまな、多くの奇跡的な事例を体験しましたので、ここでいくつかの小さな出来事をご紹介します。
「法輪大法はすばらしい」と唱えながらお年寄りとその孫を家に送り届けた
2015年の冬、私たちのところでは大雪が降り、30センチ以上の厚さでした。その日はちょうど週末だったので、先生も生徒も家で休んでいました。大雪の影響で、全県の各地へのバスはすべてストップしていました。
私たちの学校の子どもたちは全員が障害者で、心身ともに障害のある子どもが多く、通常は学校で生活し、2週間に一度の休みを取り、さらに親が送迎の責任を負っていました。土曜日の朝、校長先生から各教職員に電話があり、来週の月曜日は授業がなく、さらにクラス担任にはいつ授業を受けられるかを生徒に伝えてほしいと言われました。このようにして、生徒の保護者にはみな時間通りに通知されました。
私と夫は同じ学校で働いていました。月曜日の午後3時過ぎ、夫は校長から電話があり、学校の用務員が校長に「知的障害児1組(私が担任をしていた)の李〇〇君(11歳)は、おばあさんと一緒に徒歩で登校してきた」ということを伝えてきた、ということを言いました。道が少し遠く(李〇〇君の家は学校から22.5キロ離れている)、道が滑りやすく、そして寒さのため、朝8時から午後2時までかかってやっと学校に着きました。用務員は李〇〇君たちに食べ物を食べさせ、李〇〇君たちは今は家に向かっていました。校長は李〇〇君の親戚に知らせて迎えに行ってもらう方法を私に考えさせ、そうしないと李〇〇君たちが家に着くのがどれだけ遅くなってしまうかわからないし、天気もこんなに寒く、疲れていなくても凍えてしまうでしょう!
私は「この生徒は幼い頃に両親を病気で亡くし、祖父と祖母が少し農作業をして李〇〇君を養い、今このお年寄りは2人とも70代になっている」ということを知っていました。この生徒は知力に問題があるのに加えて、身体的にも不調を抱えており、心臓疾患や、さらにてんかんも持っており、病気になると、ひきつって意識不明に陥りました。家庭環境はとても貧しく、私たちもたくさん援助したので、着る服や靴と靴下などはほとんど家で買う必要がなくなりました。
私はこの子供(訳注:李〇〇君)の祖父に電話をしてみると、祖父は私に「先生がおしゃっていた月曜日は授業がないことを私は知っていましたが、彼らには伝えておらず、こんな大雪では誰も行けないと思っていましたが、まさか、彼ら2人が私に知らせずにこっそりと出かけていて、本当に2人ともまぬけです」と伝えて来ました。私はすぐに李〇〇君の祖父に「李〇〇君の親せきに行かせる必要はなく、親せきも歩かなければならないのだから、私たちは方法を考えますので、あなたは安心して家で待っていてください!」言いました。
話し終わった後、まだ正式に大法の修煉に入っていなかった夫に助けを求めました。夫は私よりも運転歴が長く、経験も私より多く、私は運転を始めて2年しか経っておらず、雪の上を運転したことがまったくなく、さらに道路がとても滑りやすくなっていたからでした。普段私たち大法弟子が何かに遭遇した時、私の夫はいつも率先して助けてくれ、その日のこのようなことも夫は何もしないで傍観している人ではありませんでした。私は「私たちは今日は自ら乗り出さなければならず、あなたが運転して、私たちが迎えに行きましょう。もしお年寄りと子供の歩行で歩いたなら、往復22.5キロで、空はどんどん暗く寒くなり、李〇〇君たちが家に帰れるかどうか本当に想像もつかない状態です」と言いました。私は「道のりは簡単ではありませんが、大法師父のご加護があるので大丈夫です」とも言いました。夫は私を見て何も言わず、綿のジャケットを着て出て行きました。私は、師父の写真に向かって「師父、私と夫は人を助けに行きます、順調に戻れるように、どうか私たちを加護してください、お願いいたします!」と申し上げました。
私たちはゆっくりと車を走らせ、道路の両側には厚い雪が積もり、その間には明らかに滑りそうな氷が張っていました。郡部を出てすぐに、前面の路上でショベルカーが雪をかき分けていることに気づき、このような道を私たちは5キロほど走りました。その後の道のりを、私たちは慎重に走行し、路上に歩行はおらず、車も1台もいませんでした。学校まで2キロのところまで車を走らせた時、お年寄りと子供が必死に歩いているのが見えました。
彼らの前に到着すると、2人は長靴を履き、ズボンには雪と氷が付着し、顔が赤く凍っているのだけが見えました。私たちは急いでお年寄りと子供を車に乗せました。子どもの祖母はとても感動し、感動して何度も何度も「あなたたちは素晴らしいです! あなたたちは素晴らしいです! こんな寒い日に、私たちをお迎えに来てくださって、ありがとうございました、ありがとうございました!」と言いました。そして「この子はどうしても今日学校で勉強させてほしいと言うので、おじいさんにも知らせずに行きました。知らせたらきっとこの子のおじいさんは行かせないと言うので、こっそりと出て行きましたが、無駄足になってしまいました」とも言いました。私はお年寄りに「私たちにお礼を言う必要はなく、法輪功の師父にお礼を言わなくてはならず、私は法輪功の修煉者であり、このあなたのお子さんもご存知のように、私はよく生徒たちにも法輪功の話をして聞かせます」と言いました。お年寄りは「聞いています、法輪功を修煉する人が私たちにDVDを送ってくれました」と言いました。私は再びお年寄りに「法輪功を修煉している人たちは善良な人たちで『真・善・忍』に従ってよい人になります」と言いました。私はまた「真・善・忍」という3文字の言葉の意味を個別に説明し、理解できたかどうかをお年寄りに尋ねました。お年寄りは「理解しました、あなたが良い人だから、法輪功も良いに違いありません」と言いました。
そして、私はお年寄りと子供に「道は歩きずらいので、みんなで『法輪大法はすばらしい! 真・善・忍はすばらしい!』と念じ、私たちが無事に家に帰れるよう大法の師父にご加護をお願いしましょう」と言いました。そこで私は1句ずつ念じるようにお年寄りと子供に教え、子供は私が教えたことがあり、子供はしばらくの間念じ、すぐにやめてしまいました。子供の祖母はすぐに「止めないで、しっかり念じなさい」と言いました。お年寄りと子供の家にもうすぐ到着する時、1段の上り坂があり、さらに道が滑りやすく、私たちは大きな声で念じ、結果無事にお年寄りと子供の家に到着しました。お年寄りと子供は私たちを家に上がらせようとし、家にあった干しキノコを少し持って行くようにと、言いました。私たちは「時間も遅く、道も悪いので、お邪魔しません」と言いました。お年寄りと子供は「ありがとうございます! ありがとうございます、師父!」と繰り返し言いました。お年寄りと子供の表情や、その心のこもった言葉に、私は思わず涙が出てしまい、本当に「師父は偉大で、法は偉大だ!」と感じました。
お年寄りと子供の家から帰る時には、道はまた長い区間が雪かきされていて、比較的簡単に家に帰ることができました。家に入ってから、夫は長い間安堵のため息をつき、私は急いで師父の写真に駆け寄り、師父の慈悲深いご加護に感謝申し上げました!
その日の夕方と翌日の午前中、私は子供と子供の祖母に電話して健康状態を確認したところ、子供と子供の祖母は「大丈夫です、問題ありません」と言ったので、それで私はやっと安心しました。
10日後には道路も整備され、学校も元通りになりました。同僚たちはこのことを知り「あなたたちは素晴らしい、やはり師父がいるのは素晴らしい!」と言う同僚もいました。「この法輪功は本当にすごい。この数日、毎日たくさんの交通事故が発生していました!」という同僚もいました。私は「そうです、大法を修煉していなかったら、私はあえて危険を冒すことはなかったでしょう」と言いました。
校長は何度も熱い声で「この功は本当にとてもすばらしい」と言った
2018年9月10日のこの日、私たちの学校では多くの新入生が入学手続きをしました。午前9時過ぎ、ある10歳の男の子が祖母に連れられて、学生課に入学手続きに来て、その時私はちょうどその場にいました。子供の名前は劉永強(仮名)で、 私たちの学校は県内にあり、この子供の家族は25キロ離れた農村にあり、両親も障がい者で、祖母と一緒に暮らしていました。
子供は教室に入ると、あちこち見たり触ったりし、祖母にいくら叱られてもやめず、重度のADHD(注意欠如・多動症)を持つ子どもだとすぐにわかりました。祖母の話によると「この子は怖いもの知らずで、家から出て、野山に行って、暗くなったらどうやって家に帰ればいいのかわからず、自分の気持ちをはっきりと表現できない。どこもみな子供を受け入れてくれず、口をそろえて『彼を留めておく方法はありません』と言った」ということでした。
その日私は用事があって帰ってしまったので、その子供が学校に受け入れられたかどうかはわかりませんでした。
正午に私たち教師と生徒は昼食を学校の食堂でとります。その日は中国の「教師の日」で、さらに新入生の入学手続きの仕事が多かったため、食堂では料理を少し多めに作り、食堂の営業時間は30分繰り下がり、12時30分でした。ちょうど私たちが食事をしている時に、学生食堂の責任者である先生が「どうして劉永強君は昼食に来なかったのだろう、彼のおばあさんと一緒に帰ったのだろうか?」と叫びました。すると、校長と先生たちはみな箸を置いて、すぐに劉永強君の祖母に電話をして「子供は一緒に帰ったのですか?」と聞きました。劉永強君の祖母は「いいえ」と言いました。校長は再び先生たちに「劉永強君はどのクラスに配属されていますか?」と聞きました。劉先生は「私たちの知的障害児2組で、この子供は祖母に引率されて来ましたが、教室には入らず、彼の祖母がいつ出て行ったのかもわからないし、子供を私に渡してくれませんでした」と答えました。
用務員は「私たちはここに引っ越してきたばかりで、場所が狭く、監視設備も整っておらず、今日もたくさんの人が出入りしていており、気がつきませんでした。その子供はおばあちゃんがいないことを知って、機会を見つけて外に出たのでしょう」と言いました。校長は心配そうに「とにかく、まずは子供を見つけましょう!」と言いました。声が少し震えていました。そこで先生たちは手分けして行動しました。
私たちのこの学校は県内の人口密集地にあり、校門を出ると、四方に道路があり、左側には広い南北道路があり、近くの道路には両側に果物や揚げ物を売る屋台が並んでいました。南側は人と車で賑わうバスターミナルに通じており、北側は県中心部に向かう幹線道路となっていて、主要なショッピングセンターが集まっていました。
先生たちは自転車や徒歩で、歩きながら問い合わせていました。私は最後に校門を出て、先生たちが四方八方に目を配る中、私は車に乗って駅に向かいました。このような広い県で、交通機関が行き交う中、子供が行方不明になってから約3時間が経過しており、それにその子供は入学手続きを行った時に受け入れた教務主任が何となく知っているだけで、他の人たちはまったくわからず、その子供の顔さえ知らず、午前中にその子供を見た2人の先生はその子供の外見や身長などをおおまかに説明してくれました。
私は「私の目の前でその子供を見させたのは、師父の特別な按排ではないだろうか? この子供は私と縁があるのだろうか? それなら私はきっと彼を見つけることができる!」と思いました。そこで、私は心の中で師父に「師父、どうか弟子にこの子供を見つけさせてください、彼の家庭環境はとても貧しく、これからは私が面倒を見ます」と申し上げました。私はゆっくりと運転しながら、心の中で師父にお願いし「劉永強君、どこにいるの? お腹が空いているの、早く先生たちに見つけてもらおうよ!」と子供の名前を呼びました。こうして、何度も何度も低い声で繰り返しました。
駅の近くに着くと、駐車スペースがないことがわかり、私は駅の反対側にある別の道路を使い、北に向かって曲がり、車を停める場所を探して、駅まで歩いて探す準備をしました。しかし道の両側にはたくさんの車が停まっていて、私はずっとゆっくりと車を走らせ、その道にはあまり歩行者がおらず、遠いところまで前がよく見えました。私が停車できる場所を見つけた時、ブレーキを踏み、周囲を見回し、前方には2人の老人が私の方に向かって歩いてきただけで、子供の姿は全く見えませんでした。私は口の中で絶えず師父にお願いし、子供の名前を念じ、ちょうど車を止める準備を始めようとした時、前方5メートル弱のところに、正面から子供が1人歩いてきました。ランドセルを背負い、両手でクッションを胸に抱えて、とてもリラックスした様子でした。よく見ると、それが劉永強君でした!
私はその時唖然とし、これも実に不思議なことで、さっき目の前を見ても誰もいなかったのに、どうして瞬く間に子供が現れたのでしょうか? 師父が子供を私の目の前に連れてきてくださったことは明らかでした! 私は喜んで「ありがとうございます、師父! ありがとうございます、師父! 私は子供を見つけました!」と言いました。私は車を停め、パッシングして、ハンドブレーキをかけて車を降りると、ちょうど劉永強君が私の目の前に近づいてきました。私は劉永強君の腕を取って、まるで懐かしい子供に会ったかのように「坊や、どこに行っていたの? おなかすいたでしょう? 早く車に乗って、私と一緒に学校に戻って昼食を食べましょう!」と劉永強君に尋ねました。劉永強君は笑顔で何かよくわからないことをつぶやきましたが、私は理解できず、劉永強君はおとなしく車に乗り、まるで私のことを知っているかのようで、私のことが全く知らない人ではないかのようでした。
私はすぐに夫と校長に別々に電話して「子供が見つかり、私の車に乗っています」と伝えました。校長は興奮して声が変わり「よかった、よかった、私はすぐに先生たちと彼の家族に伝えます」と言いました。
学校への帰り道、駅から歩いて来た校長に出会いました。私が車を止めると、校長は車に乗ってから「どれどれどの子かな、まだ見覚えがないな、それなのに行方不明になってしまい、本当に怖いことだ!」と言いました。そして急いで私に「子供はどうやって見つけたのですか」と聞きました。私は厳粛に「私の師父が見つけてくださったのです」と言いました。校長は目を見開いて差し迫った様子で「早く教えてください、どういうことですか?」と聞きました。そこで、私は校長に事の経過を説明しました。
校長は足を叩きながら「この功は本当に素晴らしい! この功は本当に素晴らしい! 私は本当に感謝しています」と何度も言いました。私は急いで「早く私たちの大法師父に感謝してください、そうでなければ、どうして私にこんなに大きなことができ、幸運にも子供に出くわすことができたでしょうか?」と言いました。校長は「そうです、そうです、大法師父、本当にありがとうございました、さもなければ私は今日この校長という立場を・・・」と言いました。最後の言葉は口にしませんでした。話をしているうちに、私たちは学校に到着しました。先生たちがみな戻って来るのを待ってから、私たちはまた一緒に続けて食事をしました。みんなとても喜び、先生たちはその日のことに対して感慨深げで、料理を食べながら和やかにおしゃべりしました。
この時、校長は1杯の酒を持ってきて、みんなを代表して私に酒を1杯勧めたのですが、私は他の飲み物をいただきました。1人の中年の男性教師がしみじみと「私たちの張先生(私のこと)の修煉の道は深く、私たちの多くは、あなたよりも遠くまで行き、多くの場所を探し、かなり疲れましたが、誰も子供に出会いませんでした。そしてあなたは車を走らせ、ほんの近くまで行き、まるで彼の居場所を知っていたかのようでした。あなたは引退できません、私たちのこの学校はあなたがいないと成り立ちません!」と言いました。
私がこの短い過程を再度話すと、みんな「この法輪功はす素晴らしい、素晴らしいです・・・」と言いました。2人の女性教師が笑いながら「校長が電話で『子供が見つかった』と言っていたので、張さんが見つけたのだろうと推測しました。なぜなら大法を修煉しており、あなたは普通の人ではなく、効能を持っているからです。実際、この法輪功はとてもすばらしく、それなのにトップはいろいろと意味不明なことをしています。張さんと旦那さんを見てください、体に病気もなく、穏やかで、こだわりもなく、名声や利益を競うこともなく、ひたすら仕事に打ち込んでいて、なんて素晴らしいんでしょう!」と言いました。先生たちはまた校長に「私たち全員が法輪功を修煉すれば、あなたは良い校長になれるでしょう」と言いました。私はすぐに先生たち2人の話を引き継いで「今日は私たちはみんなで大法師父に感謝しましょう! 誠実に念じてはじめて福報を得ることができます!」と言いました。みんなは笑っていました。
同僚たちの反応を見て、私はとてもうれしくなりました。 この数年、私の修煉体験を通して、先生たちは最初は私を理解していなかったのが、私の修煉を羨ましく思い、支持してくれるようになり「上層部」が私を迫害しようとした時には、先生たちは賢明に私を守ってくれました。私は「大法弟子の態度が、法輪大法の『真・善・忍』の理念をすでに知らず知らずのうちに世の中の人々の心に浸透させている」ということを知っていました。みんなの車にぶらさげるアクセサリーには「法輪大法はすばらしい」と書かれていました。『共産党についての九つの論評』や『共産主義の終極の目的』という本はほとんど1人1冊持っていました。先生たち全員が恩恵を受けました!
長年の修煉の結果、私は多くの奇跡的で、超常的で、素晴らしい事例を体験しました。人間のどんな言葉を使っても師父への感謝の気持ちは表現できません! さらに多くの人が「法輪大法は素晴らしい、真・善・忍は素晴らしい!」を本当に理解してもらえるよう心から願っています。
改めて師父に感謝申し上げます! 合掌!