文/中国の大法弟子
【明慧日本2021年11月18日】
同修・Aさんが昨年、私の家に来て、私に「私は一晩中資料を配りに行きました、とても疲れていましたが、頑張りました」と繰り返し言っていました。私が思ったのは、なぜ私に頑張った報告をするのか? 大法弟子としての責任ではないのか? 苦労したことを私に報告する意味があるのだろうか?
数日前、非常に精進している同修・Bさんも私の家に来て、彼女の努力について、話してくれました。Bさんは「私は何年も朝、調理したての料理を食べたことがなく、前の晩の残飯を温めて食べるだけです。 朝出かける前に法を勉強しなければなりません。ある日の午前中に食事を摂らずに、法輪功迫害の真実を伝えに行きましたが、飢餓感はなかったです」と言いました。以前にも一度聞いたことがありましたが、今回も同じようなことを言っていました。
彼女が最初に言い出したとき、私は「また語るのか?」と思いましたが、案の定、彼女はまた言いました。「ある日、私は22人に真相を伝え、私は歓喜心が生じていました。エレベーターから降りる時、怪我をして足が腫れてしまい、数日経っても腫れが引かなかったのです。それでも、私は人に真実を伝えに出かけました」
しかし、Bさんの話を聞いているうちに、私は急に考えが変わりました。私は他の人から学ぶべきであり、他の人がどのように貢献しているのか、他の人がどのように頑張っているのか、そして、自分は「三つのことをしっかりと行っていない」と思いました。
私は、もう彼女の不満や顕示を気にすることはなく、同修ほどの貢献をしていないことがますます恥ずかしくなり、どうして自分を大法弟子と呼ぶことができるでしょうか?
私は、同修の口を通して私を啓発してくださった慈愛に満ちた師父に感謝し、手を組み、涙を浮かべました......。