文/日本の大法弟子
【明慧日本2022年1月7日】2021年6月頃、私は修煉が行き詰まっていました。その場での足踏みが続いているように感じていたのです。どうしたらよいのでしょう?
前々から、やはり法の暗唱なのだろうと思ってはいました。ですが私はこれまで、法の暗唱を敬遠してきました。その理由は、日本語の言い回しでした。例えば、「そのように」と「このように」は、日本語として意味に違いはでてきませんが、その差異を全ページで暗記しきるのは至難と感じて、敬遠してきたのです。
『轉法輪』の全てのページで、そうした違いを覚えるのは、窮屈に感じていました。それよりも、通読を繰り返して自然に覚えようと考えていました。
そして2021年夏のある日、明慧ネットである修煉体験を読みました。修煉体験を書いた同修は、『論語』の暗唱を毎日繰り返したそうです。確か毎日10回だったと思います。
私は、なるほどと思い、『轉法輪』の全ページでなく『論語』の暗唱でもいいかと考え、自分も『論語』の暗唱を繰り返そうと思いました。結局、日に10回はやらず、朝に3回ほど繰り返した程度でしたが、それでも『論語』の暗唱を毎日続けていました。
そうしているうちに8月頃のある日、明慧ネットにまた別の修煉体験が掲載されました。その同修は、一段落ごとに『轉法輪』を暗唱されていましたが、毎回2〜3行づつ覚えてから、それらを繋げて一段落暗唱するようにされていました。それを読んで私もやってみようと気持ちが動き、第一講の暗唱を始めました。
それまで私は1日に1講のペースで読んできましたので、それなりに『轉法輪』は繰り返し読んできたはずでした。ですが暗唱してみると、「あぁ、そうだよね」と今更ながら腑に落ちることがありました。ということは、私はこれまで読んだ気になっていただけで、本当に読めてはいなかったということです。
今も1日1講のペースで読み続けていまして、暗唱のペースは速くありません。1日に1段落暗唱と決めると苦しくなりそうで、そこまではしていません。長い段落は、1週間かそれ以上かかっています。
私は毎朝起きると、前日に暗唱した段落を思い起こします。そこで思い出せれば、次の段落に進んでいます。
法の暗唱を通じて分ったことは、段落が長いから覚えるのが難しいかというと、必ずしもそうではないということです。不思議と覚えにくかった語句があり、例えば「異なる次元に」[1]を、「それぞれの次元に」と覚えてしまっていたりしました。
法の暗唱は始めたばかりですが、始めて良かったと思います。
日本人にありがちと思いますが、私も完璧主義なところがあって、法の暗唱というと『轉法輪』の全ページを一字一句完璧に覚えることを想像してしまい、「そこまで覚えきれない」と二の足を踏んでいました。
日本人の完璧主義は世界でも特殊に思われ、例えば、私は毎日地下鉄で通勤していますが、時刻表よりわずか数分遅れただけで、「遅れましたことをお詫び申し上げます」と謝罪のアナウンスが流れます。こんなのは、日本くらいではないでしょうか。
私はそんなアナウンスを聞くたびに、「いちいち謝らなくていい」と煩わしく感じてしまいます。日本では、企業や官庁に何らかの落ち度、ミスがあると、マスコミを始め正面から叩きます。叩かれた方は萎縮してしまうほど、日本は完璧でないことに不寛容な社会だと思います。
私がこれまで法の暗唱を避けてきたのも、こうした完璧主義の反映と考えています。必ずしも悪い面ばかりではないでしょうが、最初から完璧にできる人などいるはずもありませんので、まずはやってみることも大切なのでしょう。
全部覚えようとすることはハードルが高いと感じるようでしたら、『論語』を繰り返すのでもいいかもしれません。私の場合は、最初は『論語』に対象を限定することで、暗唱を始めるハードルが下がりました。
暗唱のペースは、もう少し上げようと思います。日常生活の場面に暗唱を組み入れていくことは可能と思います。例えば歩きながらとか。まだ暗唱されていない方で、お心が向きましたら、やってみてはいかがでしょうか。
最後に付け加えますと、完璧主義の別の弊害として、自分が何かできなかったり、間違ったりすると罪悪感、あるいは自己はダメだと卑下する考えを抱いてしまうことがあります。そうした罪悪感や自己卑下は、真・善・忍の状態ではないので、不要と思います。
注:
[1] 李洪志師父の著作:『轉法輪』