文/中国の大法弟子
【明慧日本2022年2月10日】近年、同修の中で学法と着実に修煉することにおいて、問題があることに気づきました。昨年、中共が「ゼロ行動」を始めた後、現地の20人近くの同修が不当に家宅捜索を受け、拘禁あるいは実刑判決を言い渡されました。修煉の角度から見れば、これらの迫害を受けた同修たちは皆、それぞれ学法や着実に修煉することにおいて、様々な問題があることが分かりました。一部の同修には長年問題が存在し、周りの多くの同修も知っています。また一部の同修は、交流の時に、同修から何度も指摘されても全然変わっていません。
ここでは、「同修はすでに迫害されたのに、また同修の問題を探すのか」という問題ではなく、修煉者として、どんな問題が起きても修煉の問題であり、いかなる忌避あるいは回避は、すべて正しくない態度であると私は理解しています。
実は、迫害を受けた同修だけでなく、一部の同修の中に共通の突出した問題があることを、私たちは発見しました。それは学法と着実に修煉することに、気づかないほどの誤差があることですが、この誤差こそが肝心で重要なことです。
誤差の現れとして、次のようなことがあります。多くの同修は集団学法に参加することを重要視していますが、自分で家での学法を軽視し、家でほとんど法を学ばない同修もいます。一部の同修は毎日法を学んでいますが、自分の考えや行動を法と照らし合わせず、問題にぶつかったらどうやって内に向けて探すかが分からず、どのように着実に修煉するかを知らないため、結果として長期にわたり自分自身の問題や修煉の環境を改善することができません。また、一部の同修は明慧ネットの交流文章を読むことを重視していますが、文章の中の方法を学んでいるだけで、何か問題があれば、すぐに交流文章を探したり同修と交流したりして、とても精進し、修煉を重く見ているように見えますが、実はだんだん法から遠ざかり、無意識に「大法こそ是れ根本」[1]からすでに背離してしまったのです。
そのような同修は法を理解しておらず、法からの昇華や変化の体験がないため、交流しても効果がありません。これを指摘するのは責任です。不適切なところがあれば指摘をお願いします。
注:
[1] 李洪志師父の詩:『洪吟』「正法の門を求む」
【編集者注:この文章は筆者の現時点での個人的な認識を代表しているものであり、同修の皆さんと切磋琢磨し、「比して学び比して修す」のためのものです】