文/中国安徽省の大法弟子 賢慧
【明慧日本2022年2月28日】修煉を始めた時を思い起こすと、涙が止まりません。師父! 弟子は罪が深く、生々世々罪を返済するために苦しみを嘗めました。今生で嘗めた苦しみだけでもひと言では言い尽くせません。
私の祖父は「地主」でした。1949年に中国共産党(以下、中共)が政権を奪い取ってから、家族全員は先祖が苦労して建てた家から追い出されました。祖父母は無実の罪が晴れないままこの世を去りました。私が生まれてから間もなく、父と兄が続けて病気で亡くなりました。母は再婚し、私は年配の貧しい農民夫婦に引き取られ、育てられました。
大飢饉の時に、私は鼠や、木の皮、山菜や野草などを食べて生き残りました。一度樹に登って木の葉を取ろうとしたら池に落ちて、もう少しで命を失いそうになりました。小学校は7年間通いましたが、学校とは名ばかりで何も学べませんでした。毎日豚に食べさせる草を摘み取り、薪を拾い、肥料にするために路上の牛や馬の糞などを拾っていました。真夏の最も暑い時、真冬の最も時寒い時、養父母に外に追い出されてこれらの仕事をやらされました。毎回仕事を終えて家に戻ると間違いなく養母に殴られたり、罵られたりしました。
家の中だけでなく外でも子供たちに嘲られ、罵られました。一日がはじまり、子供たちが十分寝て、お腹いっぱいになって楽しんで遊んでいる時、私は大人がやるべき仕事をやっていました。自分の運命は、何故これほどまで苦しいのか! 夜寝るときに「眠ったら、永遠に起きられなかったらいいのに」などと考えていました。小さい時から苦しみを嘗めていましたが、それでも養父母は私を学校に行かせてくれました。私は高校を卒業してから、昼にやるべき仕事を終わらせて、夜には暗い灯油ランプの下で、針仕事しながら本を読んでいました。
1976年に私は最後の「農村から推薦入学して卒業後農村に戻る」機会に恵まれ、大学に入学し、卒業後には都市で就職できました。初任給は30数元でしたが、私は2枚の布を買い、養父母にそれぞれ一式の服を作って差し上げました。1995年に養父母は相次いで亡くなりました。
結婚したら仲睦まじい夫婦になると思っていましたが、再び災難が訪れました。胃病、関節炎、マラリアなどの持病が再発しただけでなく、関節リウマチ、頭痛、肝炎、胆嚢炎、婦人病、心臓病、貧血、血小板減少症、腎盂腎炎などの新しい病気を患いました。私の身体はこの家庭に災いをもたらしました。夫婦間の溝も深まりました。1992年3月、私は病気だらけの身体で家を出て、効き目のある処方や生存の道を探すため深センに行きました。
1993年3月、私は深センで仕事をしていた時、偶然に新聞の広告を見ました。そこには国の気功協会が深セン市政協講堂で、各種気功の気功師を招いて、功を発しながらの報告を行うと書いてありました。私はその前にも病気治療のため様々な気功を煉りましたが効果はありませんでした。しかし今回は国家レベルの気功師たちがみな来るから、自分の病気を治すいい方法が見つかるかもしれないと思いました。
初日の夜に行って見ると、1人りの気功師が、師父の『轉法輪』「祝由科」の中で例を挙げて説明されていたのと同じ事をやっていました。「腕が痛い時はどのように治すのでしょうか? 口の中で呪文を唱えながら、あなたに腕を伸ばさせます。この手の合谷というツボに息を一口吹いて、その息をもう一方の手の合谷から出るようにします。すると、確かに一そよぎの風を感じます。触ってみると、痛みがだいぶ和らいでいます」[1] 当時私はそれが非常に不思議だと思い、全国から来たこれらの10数人の気功師の中で私の病気を治療できる人を必ず見つけられると思いました。
翌日の夜、私は2人の同僚と一緒に行きました。1人の背が高く、堂々とした、若くてあか抜けた気功師が演壇に上がった時、皆が起立して割れるような拍手で歓迎していました。私もみんなと一緒に立って拍手を送りました。座ったらその気功師が「私は今日は法を説くだけで、どんなパフォーマンスもしません…」とおっしゃいました。私はすぐにぐっすりと眠りました。どれくらい眠ったか分かりませんが、同僚に呼ばれ目が覚めました。
私が目を覚ますと全員が立っていたので自分も立ちました。するとその気功師は「私は皆さんのために1人当たり1つの病気を治してあげます。みなさんは自分の病気を1つ考えてください。もし病気がなければ、家族の誰かの病気を考えても結構です。私が1、2、3と叫ぶと皆さんは右の足で地面を蹴ってください」とおっしゃいました。その時思い出したのは「男には腎臓が肝心で、女にとっては肝臓が大事だ」という言葉でした。私の肝臓はもう肝硬変に近づいていて、自分の全ての病気の中で肝臓の病気が一番ひどかったので、肝臓の病気を考えていました。その時その気功師が「皆さん、準備できましたか?」と聞かれ、みんなが「できました」と一斉に答えました。するとその気功師は「では、皆さん良く聞いてください。1、2、3」とおっしゃいました。「ドン」という音が聞こえ、私も右の足で地面を蹴りました。気功師は「結構です。座ってください」とおっしゃいました。私は知らないうちに再び眠りました。
3日目に故郷から電話があって、養父が危篤だから、すぐ帰って来なさいと言われました。どうしよう? 私はまだ自分の病気を治療できる気功大師を見つけていないのに、この機会を失ったら、全身の病気を治療することに望みがなくなります。しかし、育ててくださった恩を返さなければならないと思い、4日目には航空便で安徽省の故郷へ戻りました。家に入ったら養父は何の問題もなく元気でした。私は一気に空気が抜けたバルーンのようになり、本当に怒りたかったのですが、面子のため、かんしゃくを起こしませんでした。今回の往復で数か月の給料が費やされてしまい、私は心身ともにへとへとになりました。
1994年に私は内陸に戻り、小さな企業を起こしました。そこで債務をやっと返したところ、身体は日に日に弱まって行きました。40歳を超えたばかりの私でしたが、見た目には70代のおばあさんに見えました。持病と新しい病気などに取りつかれたばかりか、4回の交通事故にも遭い、卵巣腫瘍で手術を受けました。不整脈、期外収縮、動悸もありました。真夏に綿入れのコートを着て太陽の真下にいても汗が出てきません。その間に悪性マラリアを患ったこともありました。寺に行って佛を拝んだり線香を立てたりしたところ、憑き物を招いてしまい、毎日生きるか死ぬかの瀬戸際にいました。私は自分の忍耐能力がもう極限まで追い込まれたと分かっていました。
1998年5月にひとりの法輪功の学習者が私に法輪功を煉るよう何回も勧めてくれました。私は「やめてください、私の身体はもう手に負えないから」と言いました。しかし、彼女は面倒くさがらずに常に私に勧めてくれました。そして半年過ぎた12月になって、生きていくために、私はひどく気が進まない状態で『轉法輪』を手に取り、彼女と一緒に動作もやりました。煉功動作を学んでから3日目の夜、ひと寝入りして目が覚めたら顔に多くの虫が這っている感じがして、触ってみたらすべて水でした。全身の服もずぶぬれになっていて、布団さえ濡れていました。私は起きてシャワーを浴びて、新しい服に着替え、布団も替えてから再び寝ました。今回はぐっすり眠れて、朝起きたら気分が爽やかになって、身体も軽くなりました。煉功を始める前に、私は同修の前で嬉しくて叫びました。「私は法を得ました。私の身体は良くなりました。師父は私を見守って下さっています。全ての病気がなくなりました。この功法はすごいです。あまりにも不思議です!」
一度オフィスで師父の説法ビデオを見ていながら、何も考えずに「師父、私は師父にお会いしことがあります」と言い出しました。言葉が口から出た途端、涙が泉のように湧き出ました。その気持ちは言葉では言い表せないものでした。数年前、深セン市政協講堂で師父は私の2つの頑固な病気を治してくださいました。その時私を眠らせたのは私の大脳を調整するためでした。そこで風が吹くと頭が痛くてたまらない病気が治り、足で地面を蹴った時、私の肝臓の病気が治りました。師父は1人当たり1つの病気を治すとおっしゃいましたが、私は治療薬もない頑固な2つの病気を治していただきました。いま法を得て三日も経たないのに、師父は私の20数個の病気を治して、弟子の身体を最適な状態まで調整してくださいました。
師父! 師父のご苦労を弟子は分っています。全ては師父の按排であって、一切の苦痛と魔難は弟子の生々世々の借りを返させるためでした。師父! 師父は弟子に生まれ変わったような変化を生じさせ、二回目の命をくださいました。師父は弟子に九死に一生を得るような勇気を与え、智慧と能力を与えてくださいました。師父の守りの下、弟子はこの20数年の迫害に反対する道を歩んでくることができました。弟子は必ず初志貫徹し、精進、更に精進して最後の道をしっかり歩みます。
師の恩に感謝します! 一首の詩を差し上げます。
少年の頃人にいじめられ、
中年は病気にとりつかれ、
老年になって法を得、
師に従って家に戻る。
注:
[1] 李洪志師父の著作:『轉法輪』