文/山東省の大法弟子
【明慧日本2022年4月29日】ある態度は人の心を動かすことができます。それが真です。ある品性は人の心を温めることができます。それが善です。ある境地は人を感心させることができます。それが忍です。「真・善・忍」は、生命が存在する根本となっています。人は心に崇高な信仰を抱いてはじめて、畏敬な念や自制心が生まれます。それが闇夜に輝く灯であり、全世界を照らし、光と希望をもたらすものです。
誠実さは、人間でいる根本です。歴史上、多くの先人や先哲が自らの行動をもって、私たちに誠実さの魅力を訴えてきましたが、「金銭至上主義」という価値観に影響され、物欲がはびこる世界において、「金銭万能」が真理になったようです。人々は常にお金のために奔走しており、利益を前にして、誠実さが大事だと思う人はいるのでしょうか? 誠実さが欲望によって圧縮される一方で、貪欲がどんどん拡大され、ついに誠実さの危機が派生されました。論文の偽造は風潮となり、科学研究に誠実さが欠如し、それに乗らなければ、昇進の資格を失う可能性に直面します。これが中国の一部の病院の生々しい現実なのです。
医者は誠実さと徳行がなければ、人命を疎かにする首切りに等しく、教師は誠実さがなければ嘘を口にし、人の子弟を誤らせることになるでしょう。弁護士に誠実さが欠けていれば、多くの冤罪や誤審案を生み出すことになり、商売人に誠実さが欠けていれば、もっと多くの地溝油や毒入りのお米、スーダンレッド(有害で発がん性物質と言われている赤色着色剤の一種)、そして毒入りの粉ミルクを生産することになるでしょう。世界は「真・善・忍」を必要としており、呼びかけています。
優しさは生命における黄金です。優しさは、飢凍する中で温かいお粥を渡されることであり、嵐に遭う中で傘を差し出されることであり、そしてどん底に落ちたときに力強く手を差し伸べてくれることでもあります。
優しさは永遠の春であり、夜の光、精神世界の太陽、そして永遠に輝く星なのです。「真・善・忍」を原則とする大法は、私に人間としての振る舞いを教え、心を清め、健康にし、人生の迷いを解き、人生の真諦まで分からせて下さいました。師父の加護のもと、長い間私の中に封印されていた善の種が根を張り、芽が出始めました。恩に報いることは中華民族の伝統的な美徳です。恩人である恩師がありもしない罪に陥れられれば、表に出て一言公平な話をするのは、正常な人の最も基本的な良知でしょう。
「真・善・忍」という普遍的な価値は、誰もが命をかけて守るに値するものです。権力や嘲笑を恐れず、30年間信仰を堅く守り抜いてきたのは、ただ世界に一つの真実を伝えるためです。それは、中国共産党が法輪功に冠した罪名がでっち上げで、法輪大法は正法であり、世界には「真・善・忍」が必要だということです。
海はどんな支流や小川の水をも差別なく受け入れるように、寛容は喜びへの道です。明の時代の美談である「六尺巷」の物語は、隣人への謙譲の心で争いが解決され、他者への寛容さが自分への優しさであることを示してくれました。法輪功は理由もなく泥を塗られて、中国共産党が流した嘘で全世界が騙されることになりました。1999年7月20日から今日に至り、法輪功学習者は暴力的な抵抗や極端な報復をせず、常に平和的かつ理性的な方法で政府および国民にある事実を訴えてきました。これは、大法弟子の優しさと寛容さを示しています。このような不公平な待遇を前に、師父は弟子たちに、他人にどのように扱われても、同じ扱い方で相手に接してはならず、何かをする前にまず他人のことを考え、問題に遭遇したら自分自身から原因を探すよう切に諭されています。このような広い心と慈悲は、天地をも感動させるでしょう。世界中は「真・善・忍」を尊ぶべきです。
「真・善・忍」を信じることにどのような罪があるのでしょうか? この世に清流、正気、そして素晴らしい希望をもたらす以外、いかなる罪もありません。「真・善・忍」は、迷子に帰宅する正しい道へと導きます。
「真・善・忍」を信じることは罪ではありません。木の実が甘いかどうかは、自ら味わってはじめて分かるのです。
「真・善・忍」を信じることに、罪がないのです。誠実さを貫いているから悔いがなく、優しさがあるから幸せであり、寛容な心を持っているから愉しさが続くのです。
「真・善・忍」は、すべての人が命をかけて実践し、大切にするに値すべきものです。優しさを擁護することは、自分自身を救うことなのです。