【明慧日本2022年6月9日】遼寧省葫蘆島市の法輪功学習者(以下、学習者)朱曇さんは法輪功を修煉してから心身ともに健康になった。1999年に中国共産党が法輪功への迫害を開始した後、朱さんは2年の労働教養を強いられ、2014年に再び懲役6年の実刑判決を言い渡された。遼寧省女子刑務所で迫害されて精神病になった。現在、朱さんは仕事ができず廃品を拾い回り、それを売って生計を立てており、ときには認識障害が起きてゴミを拾って食べる時もある。
法輪功を修煉して健康を取り戻した
朱さんは1966年に生まれ、1989年7月に大学を卒業し、葫蘆島にある錦西化学工業本社計画設計研究所に配属され、デザイナーとして働いていた。1992年に子供を出産した後、腎虚、心筋虚血、ひどい鼻炎など、さまざまな病気を患った。職場までは自転車で10分ほどの距離だが、朱さんにとっては辛かった。病気を治療するために、医療機関に助けを求めたこともあり、また様々な方法を試し、まず漢方薬の「金桂枝腎気丸」を飲み始めて癖になった。飲まないと息切れ、息苦しくなり、出勤できなかった。 その後、さまざまな気功を習ったが、体調の改善は見られなかった。
1997年末、朱さんは、法輪功を修煉している多くの人々が病気が治っただけでなく、元気になるのを目にした。「この功法は真・善・忍に従って人に善を教えるだけでなく、病気治療や体力向上の効果も良い」と朱さんは考え、法輪功の修煉を開始した。『轉法輪』を数ページ読んだだけで、とてもリラックスでき、疲労感や脱力感がなくなった。以前は不眠症に悩まされていたが、この本を読んでからは、二度と不眠症にはならなかった。朱さんは、真・善・忍に従って自分を律し、法輪功の五式の功法もしっかりやっていた。
2年の労働教養を強いられた
1999年7月20日、中国共産党は法輪功に対する迫害を始めた。2000年10月、朱さんは北京へ陳情に行ったとして連行され、1年6カ月の労働教養を強いられた。しかし、1年6カ月の労働教養を終えた後、5カ月延長された。瀋陽馬三家労働教養所で、朱さんは終日廊下でしゃがんで受刑者からの洗脳・転向を強要されていた。毎日深夜1時に就寝し、朝5時に起きなければならなかった。
労働教養所から解放された朱さんは帰宅して間もなく、また勤務先に駐在していた警官に洗脳施設に送られ、そこで1カ月の洗脳教育を強要された。転向しない朱さんは勤務先に会社を除籍され、夫もプレッシャーをかけられて離婚した。朱さんは仕事も家庭も失い、放浪を余儀なくされた。
その後、朱さんは学習者・黄立忠さんと結婚した。しかし、1年も経たないうちに黄さんは不当に連行され、盤錦刑務所に拘禁され、そこで迫害死した。
懲役6年の実刑判決を言い渡された
2014年7月24日、葫蘆島市国内安全保衛部門(法輪功迫害の実行機関。以下、国保)の警官らは梯子を使って朱さんの住宅に押し入り、朱さんを連行した。同時に連行された学習者は他にも何人かいた。2015年9月25日、朱さんたちは懲役を宣告された。朱さんに実刑判決6年、他の学習者たちにそれぞれ4年6カ月、3年6カ月、3年、1年6カ月、1年3カ月など様々であった。
遼寧省女子刑務所で精神病になるまで迫害された
朱さんは遼寧女子刑務所に拘禁され、そこで馬三家労働教養所よりもっと残酷な迫害を受けた。朱さんの所在監区では、多くの受刑者も一緒に拘禁されており、これらの受刑者は刑務官に利用されて学習者に迫害を加えた。朱さんは終日、多くの受刑者に取り囲まれ、洗脳や転向を強要されたり、体罰を受けた。例えば、毎日他人との話し合いを禁止されたり、水が溜まったバスルームの床に長期間しゃがむことを強要された。朱さんは断食でこれらの迫害に抗議した。
拷問の再現:毒薬の注射 |
断食して3日目、朱さんは点滴を強要された。数日後、朱さんは記憶を失ったかのように感じた。当局は薬の中に不明な薬物を入れた。しばらくして、朱さんはばか笑いをし始め、しかもなかなか止まらなかった。生気のない目だった。朱さんは日々悲惨に迫害されていた。ある日、医者は「もうだめだ。死にそうだ」と言った。監視役の受刑者らは交代時に常に、朱さんがまだ生きているかどうか確認が必要だった。
精神的に異変したにもかかわらず、労働は依然として強要され、ベッドで毒のある接着剤を使って綿棒を作る作業を強要されていた。刑務所で、毎朝5時に起床し、すぐに作業を始めた。食材は非常に悪く、野菜スープばかりで、しかもスープに虫の死骸が浮かんでいた。スープの味が薄くて、多くの受刑者らは自払で物を買ってご飯のおかずにするしかなかった。皆は監視カメラで監視され、特に朱さんのような学習者たちは厳しく監視されていた。
2019年12月23日、朱さんは刑期満了して解放された。しかし、迫害されて精神病になったため、自己管理ができなくなった。現在、朱さんは仕事ができず、廃品を売って生計を立てており、たまには認識障害が起きてゴミを拾って食べる時もある。昼ごはんの時に、朝ごはんで何を食べたかと聞かれると、思い出せず、住む場所もない状態である。