文/中国の大法弟子
【明慧日本2022年6月21日】私が修煉を始める数年前、白髭の道士に山に連れて行かれ、道士が手に持っていたほうきを勢いよく振ると、黄色地に赤文字の掛け軸が空から漂ってくる夢を見たことがあります。その掛け軸には、「時比務 務必時」の6文字が書かれていました。目が覚めてからもその意味がわからないままでしたが、「自分の人生には、特別な体験が待っているのではないか」と思っていました。
1995年の秋、ある男性に誘われて、わが市の軍区講堂で行われた講習会に一緒に行きました。しかし、どんな内容かもわからず、私は恥ずかしくて断り切れず、うやむやの状態で付いて行きました。ビデオの放映が始まると私はすぐに寝てしまい、講義が終わると目が覚め、皆と一緒に外に出て行き、家に帰りました。こうして、何を言われているのかわからないまま、ほぼ9日間眠り続けていましたが、心の奥底では、「人生の目標が見つかった、これからは心が浮き立つことなく、より落ち着くことができる」と、私の心の中に深く刻まれたのだと思いました。その年は25歳でした。それからの数年間、私は学校に通い、結婚し、子供を生みました。しかし、私は若くて遊び人だったため、たくさんの時間を無駄にしていました。煉功はほとんどやらず、時間があればしばらく学法をしましたが、時間がなければ学法もしませんでした。今思い出すと本当に悔しく思います。
1999年7月、中国共産党は法輪大法に対する迫害を開始しました。法に対する確固とした基盤ができていなかったため私たちは圧倒され怯んでしまいました。会社から何度も圧力をかけられ、洗脳班に入れられ、自由を奪われ、給料を減らされ、処分され、私たちは何回も妥協してしまいました。安逸な生活や物質的利益に執着していたため、多くの人が大法と大法弟子に対して罪を犯してしまいました。
2001年5月、師父が悟らせてくださる下で、私たちはパソコンとプリンターを購入しました。こうして我が家の家庭資料拠点が立ち上がりました。夫が仕事に行く前に準備をしてくれていたので、日中は私が家で子どもの世話や家事をしながら資料を作り、夜になると同修が取りに来て配っていました。当時のプリンターは速度が遅く、1台では印刷量が足りず、その後2台追加購入しました。夫はパソコンを専門に学んでいたので、何か問題があったら、私たちで解決することができました。当時明慧ネットには真相を伝える小冊子もなく、私たちは自分たちで記事を選んで編集し、朝から晩までかかって作っていました。
2005年の秋、私は突然人生で重大な打撃を受けました。夫が交通事故で亡くなったのです。今では淡々と語れますが、当時は本当に致命的なことでした。旧勢力が夫婦の情を利用して私を破滅させようとしたその時、突然、私は今まで以上に目が覚め、この数年間に自分が歩んできた道を冷静に考え始めました。普段の生活の中で、私たちは互いに依存していました。毎日、私たちは語り切れない話があって、時間があれば一緒に世間話をしていました。それはすべて常人の心だったのです。毎日三つのことをやっていましたが、あまりにもたくさんの人心が混じっており、まったく修煉者としての状態ではなく、人間が神のことをやっていて、着実に自分を修めていませんでした。過ぎ去ったことを再び有することはできませんが、大事なのは今後の道をどうやって歩んで行くかということです。心を落ち着かせ、すべてのことの後片付けをしました。2カ月後に私は法の暗唱を始めました。2カ月半の時間をかけて1回目の暗唱を終えました。それからは随分速く暗唱できるようになり、忙しくない場合は1日に一講を暗唱でき、忙しい時は1日に十数ページの暗唱ができるようになり、今でも続いています。暫くして情を放下できた私は、情の困惑から抜け出し、過去のすべてを捨て、新しい生活をはじめました。
私が一番辛かった時、同修は私に再び資料を作成するように頼みました。同修はプリンターを持ってきてくれたり、改めてネットワークケーブルを取り付けてくれたりしました。以前やったことがあったので、順調に資料作成は進みました。数カ月後、同修らの真相伝えのグループにも誘われて、昼間は真相伝えのために外出し、夜はバイクで地方に行って真相資料を配布しました。私たちは配布量が多く、1週間で600~700部の資料が必要だったため、私は絶えず資料を作成しました。ネットに繋いではダウンロードし、印刷し、包装してから同修に渡すまで、すべて私ひとりがやっていたので、時間が長くなると恨みの心が生じました。
一度私が資料拠点に行くとき、歩きながら良くない考えが浮かんできたことがあります。私はそれをすぐに排斥できず、その良くない考えが次第に大きくなってしまいました。印刷機械が起動できず、私がしばらく固まっていたところ、師父から厳しい指摘の声が聞こえ、慌てて師父に自分の非を認めたことがありました。このようなことは、資料作成する過程でなんども発生しました。同修は異なる家庭環境で育てられ、その性格や要素も違うので、長く協力しているとどうしても軋轢が生まれます。一度同修と一緒に資料配布に出かけることを約束しました。約束した場所に着いたのですが、長い時間待っても同修は来ませんでした。私はたくさんの真相資料を背負っていたため、周囲を行き交う人を見ては、恐怖心と同修に対する恨みの心が生じました。私たちが資料配布を終え、戻ってくる時、「これはすべてあなたの信息が帯びている」という声が聞こえました。一瞬にして、私は自分を責め始めました。翌日聞いたところ、ゴミの中から真相DVDが見つかったと聞きました。それ以来、真相を伝えるときの心構えに気をつけるようになりました。
北国の冬はとても寒く、夜の気温はさらに低いのですが、私たちは冷たい風の中をバイクで走らなければなりません。毎回出かける時は、自分をちまきのように包んでいましたが、あまりたくさん着ると歩くとき不便でした。しかし、私たちはとても喜んでもいたのです。それはバイクを運転していた同修が一番苦しかったはずです。中には、視界が悪くなるのを恐れてヘルメットをかぶらず、冷たい風を顔に当てていた同修もいました。毎回帰って来た時の同修たちの顔は真っ赤で、さらに少し紫色にもなっていました。今振り返ってみると、同修たちはそれだけでも尊敬すべき存在でした。いま私たちは一緒にいることはないのです。少しでも会うことは難しく、一部の同修には永遠に会えなくなっているのです。この時期を振り返って見た時、私たちはみな深く身にしみて感じています。私たち数人は5年以上協力しあいましたが、様々な原因により、今までのように協力し続けることはできなくなりました。私にとって最も残念なことです。この5年間、私たちは我が都市の周りの村々を走り回り、大法が迫害されている真相をすべての家に届けました。
日中は、真相資料を持って、山間部の畑や、ビニールハウス、池の側などに行きました。時には道に迷って、間違って民家の庭に入ることもあったのですが、そんな時は真相を伝えました。農民たちは非常に純朴で、本当に真相を理解すると、「真相を教えてくれたお礼に何もお返しするものがないので、我が家で食事をして行ってください。必ず安全には気を付けてくださいね」と言ってくれます。遠くまで行って振り返ると、彼らはまだ家の前で手を振ってくれていました。こうした感動的なことはたくさんありました。
一度、同修と一緒に真相を伝え、人を救うために出かけたことがありますが、最初は晴天でしたが、徐々に曇ってきて、道路に歩行者もいなくなりました。空には暗雲が立ちこめ、同時に風が強く吹きだし、それは驚くほどすごい勢いでした。6月だったので私たちは薄着で、ちょっと寒く感じました。同修が私に「これでもまだ行きますか?」と聞いてきて、私は「行きます」と答えました。同修は何も言わず、集中してバイクを走らせました。私たちは発正念をし続けました。他の空間では正邪の大戦が繰り広げられていると思いました。しばらくすると、誰かが穴を開けたように空に穴があき、暗い雲が抜けて、太陽の光が一筋、まるでステージの照明が私たち二人を照らしているようで、ずいぶん暖かくなりました。その時、私たちは自信が倍増し、引き続き前へと走りました。20分ほどで空の雲がなくなり、大地は平穏を取り戻しました。人々はまた家から出てきて、ビニールハウスで作業を始めました。私たちはビニールハウスを訪れ、師父が按排された縁のある人を全員救いました。
2012年になると、大法弟子を迫害する邪党の主要幹部である王立軍と薄熙来が逮捕され、世界の情勢は大きな変化が現れ、正法は新しい段階に入りました。インターネット上には真相DVDが大量に掲載されました。人々に真相DVDを見せることは最も直接的で効果的な方法です。私と同修は大量の書き込みができるDVDとDVDを焼き増しする機械を買ってきて焼きはじめました。十数年間、真相資料を作成し、配布する中、常に師父が私の手をとり導いてくださっていると感じました。
20数年の風雨のなか、私は青年から中年となり、今日まで師父の庇護のもとで順調に歩んで来ました。師父のこの世での法を正す全過程を見届け、衆生を救い済度する大任を果たすことができたことは、私にとって計り知れない光栄です。今後衆生を救い済度するためにどんなに時間がかかろうとも、前途がどんなに困難であろうとも、私は自分を惜しみなく捧げ、自分のやるべきことをしっかり行い続け、自分をしっかり修めながら、衆生を救い済度したいと思います。この20数年間で、私はますます自分の幸運と幸福を感じるようになりました。自分を選んで下さった師父に感謝申し上げます。