文/李聖慈(台湾台中市)
【明慧日本2022年8月6日】大学時代に、私は同級生に1枚の真相チラシを渡したことがある。そのチラシにある写真(下図)を見た同級生は、「どうしてこんなに大勢の人が傍観しているの?!」と驚いた口調で言った。
AP通信:天安門広場で、1人の私服警官が丸腰の法輪功学習者の顔を革靴で踏みつけ、別の警官が学習者の足を踏みつけながら、手錠を彼の首に押し付けている |
同級生が驚いたのは、被害者はすでに血を流しているのに、誰一人助けに行っておらず、楽しそうに見物している野次馬もいたことだ。
それまでは、誰かにチラシを渡す際、相手が受け取り、迫害のことを知ってもらえれば十分だと思っていた。同級生の驚きの声を聞いて初めて思ったのだが、中国共産党は度重なる「運動」を起こし、人々に立場を選ぶ訓練を強要した結果、人間性が非常に蝕まれていったのだ。
「毎回の闘争運動はいずれも共産党の恐怖訓練であり、人民は内心びくびくしながら服従し、恐怖の奴隷となるのである」(大紀元社説シリーズ『共産党についての九つの論評』【第一評】共産党とは一体何ものか)
この時点で恐らく、「金さえあればいいのでは?」と誰かが言うのであろう。
サラリーマンである私はよく理解できる。仕事が終わった後の余力は限られていて、休日には買い物をしたり、いいものを食べたり、ドラマを追いかけたりして、自分の生活を満喫するのが手一杯なので、他のことに気を配る余裕がないものだ。
しかし、私が驚いたのは、人々は最も基本的な同情心や思いやりさえ持たなくなっていることだ。
最近、あるユーチューブチャンネルが法輪功を評して、法輪功が自ら災いを招いたとコメントしているのを見た。それに寄せる書き込みもほとんどこの論調に賛同している。
昔から言われているように、「惻隠の心は誰にでもある」。
人を殺すことがそもそも間違いである。しかし長年来、法輪功学習者は拷問や殺人がいけないことだと説明しないと、同情や支持を得られないようである。言い換えれば、人心はすでに殺人に賛成するように変わったのだろうか? 中国共産党が決めた「敵」であれば、意のままに殺しても良いのだろうか?
『共産党についての九つの論評』はこのように指摘している。「恨みを煽って、他の人間を殺させるやり方は共産党の典型的な手段であり、それはいわゆる『95%対5%』の階級区別公式である。共産党は後の一連の運動でそれを十分に利用し、発展させた。95%の枠に入れれば安全だが、5%の枠に落ちたら、敵として攻撃される。大多数の人はその恐怖から、自分を守るため、必死に95%に入ろうとし、他人を陥れてもかまわなかった」「恐怖を作り出すための殺人であるため、誰を殺し、誰を殺さないか、ということに理性などいささかもない」
これまでの数々の政治運動では、災難が自分に降りかかるかどうかを予測できない中で、人々は「正しい立場に立ち、自分の人生をよくしていくこと」を選んだ。しかし、武漢、西安、上海、吉林省、雲南省など、少なくとも中国全土の人口の1/3以上を占める地域が、さまざまな形で都市封鎖される過程で、人間性が党性 (党性とは、政党または中国共産党の成員が問題を処理するに当たって、自分の所属する階級の立場に立ち階級の利益を守るという階級性の最高の現われ)に取って代わられた結果例がいくつも見られた。
例えば、PCR検査証明書の有効期限が切れた妊婦が病院側から入院を拒否され、流産となった例もあれば、突然起こる狭心症で治療を拒否された患者が亡くなった例もあった。
社会全体が党性至上主義で、人間性がないならば、数世代後には人間がどうなっているのだろうか? 活路として海外に移住できる中国人はどれくらいいるのだろうか?
法輪功はいつか、いわゆる「名誉回復」を与えられるかもしれない。しかし、「7、8年後にはまた同じことが起こるのでは?」。次に選ばれる「一握り」は誰だろうか?
お金は生きていく上でとても大切なものだが、生死に関わるようなことになると、「金さえあればいい!」と言う人がまだいるのであれば、私はそのような良知と優しさを失った人々のことを残念に思うしかない。