文/中国の大法弟子
【明慧日本2022年10月24日】少し前に、当病院のA医師の夢を何度か見ました。彼女は皮膚科の医師ですが、なぜ何度も彼女の夢を見たのだろうと考えました。修煉者に偶然なことはなく、きっと師父が私の修煉に問題があると見て、啓示してくださっていると思いました。
ここで私が注目したのは、彼女が皮膚科の医師であることです。皮膚というのは人間の体の表面です。これは慈悲深い師父が苦心され、修煉は皮膚科医のように表面だけを治療するのではないと私に教えて下さっているのでしょう。言い換えれば、私は表面だけを修めて心を修めていないため、奥深くの執着が取り除かれておらず、つまり良くない人心が取り除かれていないということです。これで修煉と言えるでしょうか? 私は、自分の修煉状態を深く分析しました。根本的な問題は、私が表面だけを修めて心に向けた修煉をしていないことであり、修煉者は心の修煉に精を出さなければならないと悟りました。私はいつも表面にとどまって修煉していたのです。師父は悟れずに向上できない弟子をみて、皮膚科医を例として、表面を修めるのではなく、内心に向けて修煉するように啓示してくださったと悟りました。以下は、悟った後に内に向けて探して修めた過程における二つの例です。これについて同修の皆さんと交流し、師父に報告したいと思います。
一、奥深くに隠れていた怨恨の心を取り除く
この心は、なかなか感知できないことが多く、すんなりと取り除くことがきません。なぜなら、怨みや咎める心は他人が間違っていると思うからこそ生じるのであり、こうなれば自分の咎めや批判、怨みは当然正しいと思うようになるからです。
人間の視点から見れば、間違ったことをすれば批判され、咎められ、恨まれるのは当然です。周囲の人が間違ったことを繰り返し、それについての批判や指摘を受け入れない時、感情の作用として恨みが生じ、時間が経つと怨恨の心が生まれるのです。私が夫や家族と接するときも、このような状態です。私は家族のやり方に満足できず、彼らはこのようにしてはいけないと思い、多くのことが間違っているのに何を言っても改めようとしないと腹を立てているのです。こうして知らず知らずのうちに怨恨の心が生じています。これが気づきにくいのは、いつも私は自分の行いが正しいと思い込んでいて、正しい行いとして怨恨の心を覆い隠してしまうからです。こうして無意識のうちに家族との対立を生み出してしまうのです。
深く掘り下げないと怨恨の心に気づかず、往々にして人間の表面から修煉することになりがちです。「私はあの人のことを気にしない、私には自制心があり、他人を寛容する理で修めなければならない」と思うようになります。人間の理で表面を修めているため、表面上では自制心があり向上したように見えますが、これは人間の理での向上であり、修煉者の人心を取り除いた向上ではありません。このようにしていては表面だけを修めることとなり、気に入らないことに出遭った瞬間、また怨恨の心が繰り返されるのです。そして時間が経つにつれて恨みや怨恨の心が深く隠されて強くなり、闘争の状態を引き起こすのです。時には師父がおっしゃった、「正しきは彼 過ちは私 何を争ふものか」[1]という言葉を思い出して恨みがなくなります。しかし、その後も夫や家族がそうした状態なると、私は何が何だかわからなくなり、とても苦悩することになります。
深く掘り下げてみてよく分かったのですが、修煉者は人間の視点に立ち、人間の理で正しいか否かを測っていたのでは、修煉を真に高めることができないのです。このことを認識した時、私は法理に則って高めなければならず、修煉者の基準で自分を律しなければならない、と思うようになりました。観念を変え、人間の理で問題をみるのではなく、修煉者の理で測るべきです。内に向けて探し、表面上が正しいか否かを測ってはなりません。人間の理で問題が正しいかどうかを見ずに、すべてのことにおいて自分自身を探すのであれば、恨みも咎めも、怨恨の心も自然と消えてなくなるのです。
二、人に指摘されたくない心を取り除く
常人は、他人から問題を指摘されたり、欠点を言われたりするのを嫌がり、良くない言葉を聞くのが好きではありません。 修煉者はこうなってはならないのですが、自分も時々こうなっているように感じます。私は普段からよく法を学んでいますが、問題やトラブルに遭遇して人から私の非を指摘されたとき、自分の内に向けて探して、できていないことを見つけ、次はできるようにすることができていません。むしろ、言われると内心では納得がいかず、すぐに話す声が変わり、続けてああでもないこうでもないと説明するのです。このとき、私は自分が修煉者であることを完全に忘れています。実は、こうした問題に遭遇したとき、それは私に対するテストであり、私を向上させるためなのです。学法や煉功は毎日行っていますが、確実に修めて真に修煉していませんでした。そのために心性は一向に向上せず、いつも常人のレベルから抜け出せず、心身はそれほど変わっていませんでした。
人に指摘されたくないことについては、私の身に突出して現れています。例えば、家事をしていると、いつも夫から「遅い」「時間の按排ができてない」と言われます。私はその度に「それなら、あなたがやれば。口ばっかりで何もやらない!」と正当化していました。もし度重なる文句や批判に直面した時、真に内に向けて探し、努力して克服して改めることができれば、本当に高めることが出来るのです。同時に、多くの時間を節約して法を学び、正しいことを行うことができます。私達は師父がおっしゃられたとおりに、いつでも自分を内に向けて探し欠点を見つけることで、自分を高めることができます。言うまでもなく、他人は正直に自分の問題を話してくれたのです。
師父は「しかし、先に話したことは最も根本的なところ、最も本質的なところから、この人が修煉者であるかどうかを証明しているので、人から指摘されたくないという執着を必ず取り除かなければなりません」[2]と説かれました。
師父の慈悲深い教えと啓示に感謝いたします。
これからの修煉の道において、必ず先生の教えを心に留め、常に照らして、人に指摘されたくない面子を気にする心、この自分を守る心を取り除き、絶えず内に向けて探し、自分の使命を果たす中で心性を高め、真に修めて確実に修煉します。
注:
[1] 李洪志師父の詩:『洪吟三』「誰が是 誰が非」
[2] 李洪志師父の経文:『ロサンゼルス市法会での説法』