文/中国の大法弟子
【明慧ネット2022年11月21日】私は1998年に修煉を始めた大法弟子です。修煉する前は、この世では治癒できない10数種類の重病に苦しんでいました。しかし、大法を修煉し始めてたった1週間で、すべての病気がなくなりました。以来、20年以上病気もなく、快適な生活を送っていました。20数年来、たまに軽い業の消化もありましたが、師父のご加護の下、気軽にここまでやって来られました。
しかし、修煉は厳粛なもので、自分では気づかないうちに人心が芽生えてきました。去年くらいから、身辺に多くの面倒なことが出現しました。修煉に対して怠惰な心が現れ、特に心性を修める方面で自己に厳しく要求することができなくなり、多くの人心が生じてきました。もともと私には服に対する執着がありませんでした。1年間に1度か2度、店で買い物できれば良いと思っていました。しかし、今年の3月から5月にかけて、服を3回も買いに行き、しかも毎回たくさん買って帰りました。過去数年来、これほど多くの服を買うことはありませんでした。食に関しても、もともと果物がすごく好きでしたが、すでに執着はなくなっていました。しかし今年からまた執着し始め、ここ数年スイカは基本的に食べませんでしたが、今年になって一度に4つのスイカを買ってしまいました(修煉する前は特にスイカを好み、ご飯代りにしていました)。肉にはもともと執着はありませんでしたが、人心の執着によって一度、数百元の肉を買ってしまいました。しかも私心が次第に強くなりました。買い物するのは、値切るのが好きでお金を節約したいからです。知らず知らずのうちに、多くの利益を求める心が現れました。
これらの一切の心が生じたことで、すでに危険な状態になっていたにもかかわらず、私は全然悟りませんでした。特に今年の正月は、ウィルスの流行のために子供が家に帰省しなかったので、家には夫と2人だけでした。表面的には静かで寂しいようですが、これはもともと修煉者にとって良いことです。しかしこの時の自分は修煉を疎かにしていたため、子供たちが送信してきたビデオを観るのが好きでした。もともと何年間も携帯電話を持たず、夫の携帯で見ていましたが、ついにウィチャットの「周易」の今年の自然災害と人災の予言が気になり、これらの予言に執着していました。これはすでに大法から逸脱し大法の中にいないことになります。しかもさらに動態ネット上の予言にも執着し、さらには、ある同修がネット上で予言について交流しているものがあり、それらに執着していた私は一日中頭がぼんやりしていました。実はこの時の自分はすでに危険な状態でした。しかし、私はまだ目が醒めませんでした。これらの執着を放任していたために、最終的に旧勢力は隙に乗じて、私の肉体への迫害を実行しました。
今年の端午節の午前10時頃、私はトイレで排尿後の不快感と排尿痛を感じましたが、真剣に受け止めませんでした。しかし10分も経たないうちにまた排尿痛が現れ、この時は前より症状が重くなった感覚があり、3回目には尿に血が混じっていました。さらに頻尿、尿意切迫感、排尿痛、血尿などの症状が次々と現れました。12時までずっと発正念をした後、やっと少し緩和されました。実は私は修煉前、急性腎盂腎炎を患っていました。
そのような状態が3日間続き、4日目になると症状は軽くなるどころか、かえって重くなりました。現れた血尿は子宮内からのようでした。肉のような血の塊が排泄されましたが、恐い感覚はなく、実はこの時すでに尿路感染症の症状に変わったと感じました(この病気は、私が修煉する前の持病でした)。
眼前の間違った状態を目の当たりにして、私は自分の修煉に問題があったために旧勢力が隙をついたのだと分かりました。私は自分自身にできるだけ多く学法しなければいけないと言い聞かせましたが、『轉法輪』を手に持っても1時間に10ページも読めませんでした。私は焦りの気持ちで、師父に弟子を加持してくださるようお願いしましたが、旧勢力は容赦なく私を迫害し、『轉法輪』の文字がはっきりと読めないようにしました。その後の数日間状態が良くない時は、私は暗記に頼って学法しました。このような状態で4日間基本的に食事が喉を通らず、少しのお粥を水で口に流し込みました。そうしなければ飲み込めませんでした。
このような状態が10日間以上続き、私の体重は5キロ以上減りました。基本的に立っていられなくなり、動功ができなくなっていました。毎日第5式の静功しかできませんでした。その間の4日間、基本的に夜は眠れませんでした。一日中朝から晩まで、私は絶えず「法輪大法は素晴らしい、真善忍は素晴らしい」を念じ、毎日何万回も念じました。その数日間、昼間は少し良くなりました。ところが、毎日深夜12時頃になると、私が住む家の周辺でフクロウの大群が現れて鳴きわめきました(農村の老人によれば縁起の悪い鳥だそうです)。本当に人の心を乱すわめき声で、発正念のきれいな空間場でさえ大きな作用が働きません。ある日の深夜12時、一羽の特大のフクロウが、私の住む建物の向かいの建物の屋上で、小さなフクロウの大群を引き連れ、けたたましく吠えました。私はこのフクロウの大群を見つめ、心の中でそのフクロウと交流しました。2日目の夜、離れて行かずに残っていた数羽のフクロウだけがまだ鳴き叫んでいました。私はそれらに向かって「お前たちは『真善忍は素晴らしい、法輪大法は素晴らしい』を覚えなさい。もう夜にやって来て世間の人の睡眠を妨げないで。そうすれば福報を得られるから」と言いました。それ以後、もう夜フクロウが現れて遠吠えすることはありませんでした。
また数日が過ぎて、私は考えました。自分はこのままではいけない、この大きな生死の関を乗り越えなければいけない。私は本が読めなくなってしまったので、パソコンで師父の『広州説法』のビデオを再生しました。私は毎日1講を聞きながら、その過程の中でたとえどんな難であっても乗り越え、堅持しようと思い、足を組むのははじめは大変でしたが、座禅を堅持しようと決めました。9日間かけてついに師父の『広州説法』のビデオを全部観終えることができました。その過程の中で師父は、私の多くの悪いものを取り除いてくださいました。
この期間にもやはり、腰痛、胃痛、舌の痛み、足の痛み、頚椎の痛みが現れ、私の足は暑い所では歩けず、特に涼しい所でしか歩けませんでした。そして一日中、外に向かって腹を立てていました。極度のイライラした気持ちは本当に辛かったのです。この20日間以上で私が修煉する前に患っていた10数種類の大病が、また新たに現れました。しかし私には、それらがすべて良いことだと分かっていました。私は必ず関を乗り越え、百パーセント師父と法を信じ、心性を高め、無条件で内に向かって修め、また人心の執着を修煉によって捨てなくてはいけないと思いました。
その中で、私は絶えず内に向けて探しました。修煉の中で多くの人心を見つけました。利益を求める心、食に対する執着、色欲の心、怨恨心などなどです。修煉の中の最大の漏れは、修煉後の後ろ盾として大法をみなしていたことです。私の間違った認識は、大法を学びさえすれば、病気の状態がもう現れることもなく、気分良く人の世で師父の要求する三つのことをやり、最後は師父と家に帰れるのだと思っていたことです。私のこのような間違った考えは、師父が話された、私の本を持って大通りを歩きながら、「李先生が守ってくれているから、車なんか怖くない!」〔1〕と叫ぶ者とどこが違うでしょうか? 師父がどうしてこのような学習者を護ってくださるでしょうか? 私はなんと身の程をわきまえていなかったのでしょう! このような間違った考え方をもっていて、どうしてまだ師父の弟子と言えるでしょうか? この根本的な執着を見つけた後、私は発正念の力を強め、師父に加持をお願いし、師に対し不敬な、大法を後ろ盾とみなす偽りの自分を滅しました。私は引き続き発正念を続け、邪悪は私の強大な正念の前で退却しました。そして20日後には、ゆっくりとですが食事ができるようになりました。
物を食べられるようになってから、私はだんだんと元気になっていきました。さらに数日が経ち、外出できるようになりました。このように前後合わせて丸々1か月間の生死の関による戦いを経て、ついに乗り越えることができました。6月5日の晩、5式の功法を一気にやり終えた後、私は泣きました。それは悲しみと感謝の悲喜こもごもの気持ちで、私は心の底から叫びました。師父ありがとうございます、弟子は関を乗り越えました! 慈悲なる師父の護りがなければ、私は歩んで来られませんでした。師父はまた私にもう一度生きる機会を与えてくださいました。
私は、徹底的につまづいたことで目が覚めました。完全にはっきりと目が覚めました。正法の過程において、くれぐれも何かを行うことが修煉であるとみなしてはいけないのです。たとえ衆生済度のためにいくら多くの事をしたとしても、自己をよく修めなければ、依然として危険な境地にあるのです。血の教訓、痛ましい教訓があるのです!
この魔難を通して悟った後、私はまるで入門したばかりの弟子のように自分を修めることができると感じました。修煉とは何であるかが分かり、内に向けて探すことの重要性が分かり、修煉とは自己を修めることであって、他の人に修めさせるのではない、と理解しました。自己を変えてこそ、修めて神になることができるのです。他の人を変えるのは人間のことです。自己をしっかり修めてこそ世人をより良く救うことができるのです。そうしてこそ、師父の要求する三つのことがより良く行えるのです。
今回の魔難を越えた後、私は自分の殻を破りました。現在私は、自分はまるで蚕の繭の中から這い出たばかりの新しい生命のようで、この新しい生命はこの上ない活力を持っていると感じます。私にもう一度生存の機会を与えてくださった慈悲なる師父に感謝いたします。私はこのことをとても大切にし、自分の一切のものをすべて師父に捧げ、大法の中で新たに自己を鍛え、自己を高め、一切のことを他人の為に行う良い人になるつもりです。そうして先史の大願の約束を果たし、師父について家に帰ります!
執着心の重い同修たちへの参考として、ぜひとも私のように転んでひっくりかえることがないよう、最近体得したことを書きました。痛ましく、深刻な教訓です!
法に則っていないところがあれば、ご指摘をお願い致します。
注:
[1] 李洪志師父著作:『転法輪』