文/台湾台北の大法弟子
【明慧日本2022年12月18日】
一、師父が目覚めさせて下さった
今年の6月に中共ウイルスの症状が出たのですが、いつものような業力を消すことだと思い、何も考えず、内に向けて探すこともしなかったところ、短期間で急激に症状が悪化しました。度重なる発熱のためほとんど食べず飲まず、3日目になると、体力が落ちてしまい、その日の夜、心拍数が激しく上がり、精神状態はパニックと不安で、今まで経験したことのない感覚が襲ってきたのです。「もうだめかもしれない」という死への思いが突然現れてきました。
そのとき、私は完全に間違った状態であることに気づきましたが、もう手遅れになったようで、無力な体を引きずってリビングでゆっくりと歩いていました。疲れきって、目を閉じて眠りたくなったのですが、目を閉じたら二度と開けられないかもしれないともはっきり分かっていました。あるものが虎視眈々と私を見つめており、いつでも私を連れて行けると強く感じていたのです。私は不安で涙を流し、生まれて初めて命の弱さを感じ、自分の命は自分の手には負えないことを痛感しました。その時、自分の修煉状態がこんなに悪いのかと気づきました。家族を手放したくない、命を手放したくない、生活を手放したくない、自分の持っている全てのものを手放したくない、たくさんの執着心が一気に現れてきたのです。
しかし、心の底では、「このまま死んではいけない、死んだら何もかもなくなり、この体がないと修煉できない、ここで全部終わってしまう」と思っていました。私は、押し寄せる様々な思いを前にして、師父に助けを求めるべきかどうか、悩みに悩みました。自分がしっかり修めておらず、精進もせず、生死の境をさまようような事態に陥って初めて師父に助けを求めようとすることだと、自分自身にははっきり分かっています。「私にはまだ師父に助けを求める資格があるのか、師父に救い済度していただく資格があるのか」と自問しました。私はまだ、師父の助けを受けるに値するのでしょうか? 過去に、自分自身の精進しない様々な表れが、歴史をたどるように蘇ってきました。「ほら、自分を見てごらん。常人と同じようにしており、修煉しているのか、これは修煉なのか」と自問しました。
私は恥ずかしさと悔しさで、心の中で「師父、私を救ってください! 死にたくないです! まだしっかり修煉できていません。残って法を実証しなければいけないのです!」と叫びました。その瞬間、心拍数が下がり、パニックや不安がなくなり、体はまだ弱っていたものの、虎視眈々と私を見つめているものが消えたことをはっきりと感じたのです。
私は、地獄の門をくぐって帰ってきたかのように、疲れ切ってベッドに横たわったのです。翌日、目が覚めると熱は下がり、師父に救われたと分かりました。
二、師父の要求に従い、集団煉功に参加する
中共ウイルスの症状に懲りて、長年の観念を捨て、煉功場へ行き、同修たちと一緒に朝煉に参加することにしました。今までの私は、自宅で煉功するのが好きで、その同時に、仕事が忙しいとか、スケジュールが合わないとか、近所に煉功場がないとか、いろいろな言い訳をして、師父の仰る通りに集団煉功するのは嫌でした。そんな思いから、ネットで調べても、自宅近くの煉功場は見つかりませんでした。
不思議なことに、集団煉功に参加することを決めてから、すぐに近くにある煉功場が見つかりました。そこで、早朝の集団煉功に参加するようになりました。
朝の煉功に参加するメリットは、自分の修煉状態を常に確認できることです。煉功に行きたかったのか? 煉功するとき、入静できるのか? 邪魔になるような雑念が頭の中にたくさんあったのか? 暑すぎたり寒すぎたり、ハエや蚊に邪魔されたりと、体が不快にならないか恐れているのか、ということを確認できるのです。
師父は、「人間は往々にして惰性があります。これはあなたが認めたくなくても否定できないことです。あなたの考えはまだそこまで昇華していないからです。集団で煉功する環境から離れれば、あなたを促す要素がなくなり、修煉するようあなたを促す外的な条件もなくなります」[1] と説かれています。
朝の煉功に参加し続けたからこそ、意志の強さが増していくのを感じ、このように鍛えることは忍耐力、苦を嘗めること、耐えることと払うこと、といった心性の向上にもつながりました。
これまで私は、心性を修めることと煉功することは別物だと思っていたため、煉功の重要性に気づきませんでした。朝の煉功に参加してから、学法の状態も変わりました。十数年も『転法輪』を読んできていますが、悟ったことは少なく、師父が仰っている様々な次元の法理がなかなか理解できず、学法が形式的になり、ひいては、常人のことをしながらでも学法するようになり、完全に時間の無駄でした。しかし、朝の煉功を始めてしばらくすると、同じく『転法輪』を読みますが、様々な次元の法理を悟ることができるようになり、法を学ぶたびに新たなことをどんどん得ていくようになりました。何度か読んだことのある法が、真新しいもののように見えました。「おかしい、なぜ今までこの法理を悟れなかったのか?」と思いました。また、このような状態の変化は、私の煉功への決意を増やし、強化するものでした。
師父は法の中で「法輪大法も性命双修の功法なので、煉功するのに動作が必要です。動作は、一つは功能を加持する働きをもちます。加持とは何でしょうか? それは強い功力で功能を強化して、ますます強くさせることです。もう一つは、身体の中にたくさんの生命体を演化させなければならないことです」[12 と説かれています。
まるで私が修煉していたのが法輪大法であることに突然気づいたようでした。師父の言われることは明快であるのに、自分の観念で修煉すべきか否かを判断するにはどうすればいいでしょうか。しっかりと煉功しなければ、どうして法輪大法を修煉していると言えるのでしょうか?
三、同修を見下す嫉妬心を取り除く
私は嫉妬心も強く、特に気に入らない同修を見下すようなところがあることに気づきました。メディアのプロジェクトで修煉することで、専門的な要求は常に高まっています。その専門的な要求に対し、なかなか上達できない同修、市場競争力に欠ける同修、無能すぎる同修を、無意識のうちに自分の基準や概念で批判し、この人たちはメディアのプロジェクトにふさわしくないと考え、メディアのプロジェクトの発展の足を引っ張り、衆生を救うことに影響を及ぼすと思っていました。私は自ら積極的に協力して挽回しようとしないばかりか、同修が物事を台無しにしたのを冷ややかに見ていたのです。
この状態は長く続きました。ある日、ふと、この態度や考え方は旧勢力と全く同じではないかと気づきました。旧勢力は自分を変えようとせず、気に入らない同修を淘汰しようとしています。各次元の旧勢力は、自分が宇宙の最高主宰者であると思っていたのですが、実は自分がより高い次元の旧勢力に淘汰されていることに気づいていなかったのです。私は自分が優秀だと思っていること、同修を見下すこと、意識的や無意識的に消極的に協力すること、ひいては、物事を悪くして成し遂げられないでほしいとさえ思っていることは皆、旧勢力の現れではないでしょうか?
この嫉妬心の裏には、傲慢で独善的な心が隠されていると気づきました。人よりもうまくできる自分に満足し、仕事の成果や学習能力に満足し、評価や称賛を当たり前のことと思っていました。弟子の能力は全て師父から頂いていることをすっかり忘れていました。師が法を正すことを手伝うため、衆生を救い済度するために、師父がこれらの能力を与えて下さったのです。そして、このような傲慢な考え方も、自分の心より魔が生じることの現れではないでしょうか?
この自分の心にずっと気づかなかったため、自我がどんどん膨らんで、他の同修にもますます不満を持つようになったのです。一時期、私は常にあれこれと批判ばかりしており、個人メディアの中国の時事評論に夢中になり、自分がますます全てを理解できるような気になっていました。ある日、海外メディアのプロジェクトに参加する中国人同修が気に入らなくなったと感じ始め、その同修たちの言動や考え方は、すべて党文化の残りくずだと思うようになりました。ある日、『転法輪』の中で師父が使われた言葉やフレーズをコメントするようになりました。当時は、自分は何も間違っておらず、ただ客観的に言っただけだと思っていました。今思えば、本当に恐ろしいことです。私は嫉妬心であんなに狂ってしまうなんて、破滅に向かっていても気づかなかったのです。ですから、中共ウイルスの症状が私に起こるのはまったくの自業自得で、さらに旧勢力に引きずり込まれる寸前まで行ったのです。
自分のこの強い嫉妬心を自覚してから、発正念の時、「自分の空間場にある嫉妬心を構成する全ての邪悪な物質や要素を完全に解体する」という一念を加えるようにしました。発正念の回数が積み重なると、確かに嫉妬心が薄れていくのを感じました。嫉妬心が完全になくなったわけではなく、今でも時々生じたりしますが、この心をより早く察知し、素早くキャッチして取り除くことができるようになったと実感しています。執着心も他の空間では霊体であり、自分の主意識が緩むと、執着心が私たちの思考を支配する機会を得て、その執着心を拡大させ、それを利用して執着心自身のエネルギーを増やすと思います。自分の主意識を強化し、これらの悪い考えを克服する意志を強化することによってのみ、師父はこれらの執着心を取り除いてい下さるのです。
四、法の暗記を始め、時事刻々法理に照らし合わせ、内に向けて探す
学生時代には暗記が嫌いで、古文や歴史、方程式などの苦労して暗記するものにはとても抵抗がありました。多くの同修が法を暗記していることは知っていますが、私はその必要性を感じませんでしたし、暗記できるとも思っていませんでした。昔、試しで1ページだけ暗記しようとしたのですが、すぐに諦めました。
今年8月のある日、明慧ラジオで法を暗記するシリーズを聞き、同修の交流分が心に響きました。ある同修も暗記が苦手で、他の同修のように数ページを一気に暗記することはできなかったのですが、彼は「法を暗記したい」という信念を持って、たとえ忙しくても、たとえ一文でも一日に最低2段落は暗記することに取り込んでいるそうです。また、もう1人の同修は、法を暗記する順番にこだわらず、トラブルや魔難に遭うたびに、『転法輪』の中から該当する法を見つけては暗記していたそうです。この二人の同修は、粘り強く法を暗記し続けることで、心性に大きな変化を感じたそうです。
あまりに励まされたので、私も法を暗記し始めることに決めました。法を暗記するのは本当に力強くて、一字一句暗記するように心を静かにしなければならないので、一字一句が焼印のようにしっかりと記憶されるのです。学法に集中するのも効果的ですが、暗記するのは別次元で、体の細胞が振動しているような、言葉で言い表せないほど素晴らしい感覚を味わえます。同じ文章でも、読むのと暗記するのと、まったく違う法理を悟ったこともあります。一見ごく普通の文字や単語でも、暗記することで別の次元の法理が見えてくるようになります。
毎日、法を暗記していると、自分の心性がどんどん向上していくのが実感できました。まるでとっくに段取りされていたように、暗記したところで、ちょうどそれに関係するトラブルに遭遇します。暗記した法を思い出して、執着心を捨てれば、すぐに乗り越えられるようになります。法を暗記することは、次元の向上にとって、まるでロケットで速いスピードで上に向かっているような感じです。
また、法を暗記することは思ったほど難しくなく、法をたくさん暗記すればするほど、暗記のスピードが上がっていくことが分かりました。早朝、私はいつも法を暗記しながら煉功場に向かいます。心の中で師父の説法を暗誦すれば、師父が弟子に勇敢に精進するようにと励ましてくださると感じられ、その神聖さは本当に言葉では言い表すことができません。
結論
私は法を得て、長年にわたっても、修煉とは何かということを理解することができませんでした。長い間、安逸心で修煉を怠り、常人のようになってしまい、快適で楽な生活を送っていると自己満足にさえ陥っていました。今年は中共ウイルスの症状で大きな教訓を得ました。焦って慌てて修煉の進捗に追いつく中で、私はあまりに多くのことを見逃していたことに気づきました。
師父は、「修煉は長い道のりで、徐々に自分の執着心を切り捨てていく過程です。とはいえ、自分自身を厳しく律しなければなりません」[2] と説かれています。
そうですね。私は本当に厳しく自分を律し、決して緩めることはしません。
師父の慈悲なる救い済度に感謝いたします。
以上は、私の修煉体験談の交流でした。次元が限られているため、法に背き不適切なところがあれば、同修の慈悲なるご叱正をお願いします。
注:
[1] 李洪志師父の著作:『長春輔導員法会での説法』
[2] 李洪志師父の著作:『転法輪』
(2022年台湾法輪大法修煉体験交流会の発表原稿)