文/中国の大法弟子
【明慧日本2022年12月20日】私は今年71歳で、20年間修煉しています。どう修煉するかも分からなかった状態から、今では一つの考えや一つの念から常人の考えを見つけることができるようになりました。ここまでの過程は長い道のりで、非常に困難でした。その中には師父の限りないご加護と啓示がありました。ここで師父に心より感謝いたします。
今まで同修がよく「年を取った、身体にいつも不都合がある」と言うのを聞いても私は気にしませんでした。自分には老けるという観念がないと思っていました。しかし、最近の体験は私に注意を促し、考えや行動において自分をもっと高い基準で律するようにと気づかされました。この体験を書き出して同修と交流したいと思います。間違ったところがあればご指摘お願いします。
2022年に入ってから孫娘は常に「おばあちゃんは老けたね」と言っていました。私の娘も最近、私が老けたことに気付いたと言っています。最初は、自分の心は若くて身体も健康だから「老」という言い方を認めませんでした。しかし、白髪が多くなり、染めるのも好きではなかったので、町に出ると他の人に「あなたは老けましたね」といつも言われました。その時は口から出任せに「そうですね。老けましたね」と答えていました。
一言二言は大丈夫でしたが、言う回数が多くなると頭に「老ける」という観念が生じ、ここまで年を取ったのだから若いはずがないと思いました。この何気ない考えが私の修煉に多くのトラブルをもたらしました。
今年の8月6日、私は親戚の90歳の誕生日パーティーに参加しました。行く途中で左の膝関節が少し痛かったので手で少し撫でました。心の中では業を滅していると思い、業がなくなったら師父について家に戻るのだと考えました。
翌日の朝、動功を煉る時はまだ問題がありませんでしたが、静功の時、左の脚がどうしても組めなくなりました。激しいピリピリした痛みを感じて、歯を噛みしめながら頑張って脚を組みましたが、正しく組むことができず、枕を脚の関節の下に置いてやっと静功を終わらせましたが、脚を引きずって歩くしかありませんでした。その前までの業を滅する時は数日間で終わりましたが、今回は二週間過ぎても好転しませんでした。
続いて右の太ももも痛み出し、発正念しても効きませんでした。私は内に向かって探しました。どのような執着が旧勢力に口実として掴まえられて迫害されているのか? そこで自分にはまだ修めきれてない利益の心、恨む心、顕示心などが存在することに気付きました。
それから一週間過ぎましたが、脚は依然として痛く、特にトイレに行くと、しゃがむことも立ち上がることもできず、生活上に大きな不便を感じました。そこで便器を洋式に変える必要があるのかまで考えました。団地の多くの年を取った人は手足も不便だから洋式便器を買うなど生活方式を変えていました。手足が不便だから洋式便器を買うのは常人の考えだと思います。私は大法弟子であり、修煉過程で身体が絶えず若い方向へ戻っているはずなのに、なぜこのような現象が現れたのでしょうか? おそらく考えの中で自分が老けていると認めているからです。
そこで思い出したことですが、今年5月のある日の朝、静功を煉功していた時、師父はある光景を見せてくださいました。私は両手に水がいっぱい入っているステンレスの蒸し器をもっていました。心の中では蒸し器には穴がたくさんあるのにどうやって水を入れることができるのかと思いました。すぐ悟りましたが、師父は「執着が一つも漏れることなく無くなるまで修めて」[1]と悟らせてくださいました。自分が老けていると考えるのは一つの執着心です。さらに続けて探すと「人が老けた」という言葉には怠惰心、依頼心、緩める心などが含まれていて、修煉で精進していない表れであり、言い訳であり、修めてなくすべき執着心でした。
私は強大な正念を発しました。いかなる邪悪な要素やいかなる口実であろうと修煉者を妨げることを許さない、旧勢力の按排を否定する。年齢を重ねれば重ねるほどさらに精進し、着実に修煉する、と。私は両脚の痛い部位に対して師父の与えてくださった佛法神通を使ってきれいにしました。翌日、状況はかなり良くなりました。今は大体足を組んで煉功することができるようになりました。
そこで修煉は厳粛なことだと悟りました。師父の法に従って自分を厳しく律し、考えが常に法理に則ってこそ、最後の時に妨げられないということです。そして、時間が迫っていること、人を救うことの緊迫性が分かります。
私の周りの同修の多くは70、80代であり、ほとんどの人が二十数年修めていますが、それぞれ異なった緩んだ状態が現れています。
1、子供が親孝行していて、各方面の条件が良くなっているため、安逸心が比較的強く、老後を楽しみたい心がある。
2、身体のどこかの具合が悪くなるとすぐ病院に行き、口では「大法に悪い影響をもたらさないためだ」と言う。
3、法を正すことが終わるまでは遥かに遠いと思い、家で学法、煉功、発正念さえすれば良いと考えている。
4、修めているかどうか分からない人で、常人の中のことが重要であり、修煉は時間があればやり、興味が沸いてきたらやる。
このような類の同修の大多数は安全でないからといって人を救うことはやっていません。しかも資料をそれなりにたくさん配ったので、真相を受け入れられる人はもう受け入れているので配る必要がないと言っています。
実際、修煉には限りがなく、今の次元の中で徘徊し、傍観しているようではとても落ちやすくなり、人を救うことをしないのはつまり自分が緩むことです。三つのことをしっかり行うことは師父の要求であり、たとえ少し少なくても仕方ありませんが、執着心に好きにように支配されてはなりません。
師父は私たちを非常に大切にされていらっしゃるので、私たちはもっと自分自身を大切にするべきです。私は三つのことを行う過程で絶えず心性を修め、執着心をなくすこと自体が自分を大切にしていることだと思います。師父は「皆さんを大切にしているのは、皆さんが大法の中で修めて正法正覚の真に偉大なる覚者になることができるからです」[2]と説かれました。
法を正すことが既に終盤に入っており、いつ終わってもおかしくないので、私たちは残っている僅かな時間に、師父が忠告してくださった「少なからずに休み自省して、正念を強め」[3]に従って自分の執着を探し出し、法を正す進展に追いついていけるよう努力し、合格した大法弟子になるべきです。
注:
[1] 李洪志師父の著作:『精進要旨』「修煉は政治ではない」
[2] 李洪志師父の著作:『精進要旨』「堅実」
[3] 李洪志師父の詩:『洪吟二』「理智醒覚」