文/中国の大法弟子
【明慧日本2022年12月26日】最近、私や近隣の地域では、「病床」に臥せっている高齢の大法弟子が少なくありません。中には、乗り越えることができず、亡くなってしまった人もいて、とても残念に思います。
私は59歳で、これまで命にかかわる五つの病業に罹りましたが、自分を修煉者として扱い、師と法を信じて突破してきました。その出来事を書いて、「比して学び、比して修す」[1]ことをみなさんと共有したいと思います。法に反している場合は、慈悲なるご指摘をお願いします。
冤罪で服役中、刑務所の水道水に何かが混じり、受刑者全員がひどい下痢に見舞われました。私も症状が重く、ふらふらと歩き、ベッドから起き上がれず、ひどく痩せてしまいました。でも病気ではないと思ったのは、自分が修煉者だからです。下痢の原因はきっと他の受刑者と違います。 私は注射もせず薬も飲まず、法を暗唱し、師父の加持を求め、できるだけ煉功しました。
拘置所は責任を取るのが怖くて、2人で私を監視し、ダメならすぐに病院に連れて行かれます。12日たっても下痢が止まらず、死にかけているようで、何かがおかしいと感じました。師父は、業力を使って弟子に設けた難や関を、すべて乗り越えさせるようにされたのです。いまの状況をみると、邪悪が致命的な打撃を与えたようにみえますが、私は厳粛に「私を死なせようとするなら、すればいい、しかし、私の命が欲しくても、私の師父が同意しなければならない」と邪悪に警告しました。その結果、その日のうち、下痢が止まり、数日前から薬を使用していた人よりも早く治りました。
刑務所にいる時のことでした。私は突然脳が麻痺し、真っ直ぐ歩けなくなりました。他人が何を言おうと、私は絶対「病気」だと考えていませんでした。 「法輪大法は素晴らしい、真・善・忍は素晴らしい」を唱え、ある段落の法を思いついたら、それを暗唱し、発正念をして煉功しました。十数日以上たって、昼食をとっていると、右の鼻孔から何かが出てきたので、すぐにつまんで、ゴミ箱に捨てました。驚きも恐れもありません、出てくるのは悪いものであり、良いものは師父が守ってくださいます。ベトベトしたものが流れ出した後、頭がすっきりして、普通に歩けました。翌日、ゴミ箱を掃除しに行くと、それは黒く固まって、のりのようにバケツの底にくっついて、シャベルでこすることさえできませんでした。
ある冬、クライアントの配管工事をしていたときのことです。 急に頭が痛くなり、めまいがし、全身が無力感を覚えたので、思わず地面に座りました。地面には水があり、綿のズボンがびしょぬれになりました。自分の良くない姿を誰かに見られたくないので、「トイレに行く」と言い、急いで外に出ると、話す際に舌が固くなっていました。道ばたに座っていると、冷たい風ですこし目が覚め、法を暗唱しようとしましたが、頭が真っ白になり、一語も思い出せませんでした。 「法輪大法は素晴らしい」という言葉をやっと思いつき、断続的に十数回復唱し、その後「真・善・忍は素晴らしい」も復唱できるようになったのです。「法輪大法は素晴らしい、真・善・忍は素晴らしい」と、唱えれば唱えるほど、頭がすっきりして、唱えているうちに、頭が痛くなくなり、体力も少しずつ回復してきました。30分ほどで元気になり、仕事に戻りました。
ある日の夜、突然、左胸、肩、背中に激痛が走り、大汗をかき、息ができなくなり、1枚の紙も持てなくなりました。師父に懇願しながら、同修に電話をかけようとしましたが、かなり苦労しました。私が住んでいる家に暖房がなく寒すぎるのを見た同修は、同修の母親の家に送ってくれたのです。この同修親子に助けられたことは、とてもありがたいことでした。不正常な状態が10日続き、命を奪われるような気がしましたが、それでも心を動じずにいました。「生きて求めるもの無く、死しても惜しまず」[2]、残るも去るも師父の按排次第です。どんなに難しくても、1段落、1ページ、1講義ずつ、学法することにしたのです。もしできなかったら、「法輪大法は素晴らしい、真・善・忍は素晴らしい」と暗唱し、可能な限り煉功を行いました。確かに「弟子正念足りれば 師は回天の力有」[3]ということなので、また私は突破することができました。
しばらくの間、私の周りで突然糖尿病患者が多くなり、元々頑丈な若い労働者が、痩せて猫背になりました。私も尿失禁を伴う重度の糖尿病状態になり、ズボンの中で排尿してしまい、トイレに行く時間がまったく間に合わないのです。職場では、散々な目に遭いました。私はいつも通りに法を学び、煉功し、人を救い、普段のように働きました。喉が渇いたら水を飲み、お腹が空いたらご飯を食べ、すぐに元通りになりました。
内に向けて探すと、なぜ私はいつも病業に遭遇するのでしょうか。借りを返すということが基本ですが、これは主に歴史的な理由によるものです。しかし現実的な理由はどうでしょうか。体が変化に追いついていないからだと思います。旧勢力の迫害と妨害に加えて、私は大きな病業の難に遭うたびに、法を学ぶことに注意を払わず、煉功をきちんとしていなかったことが原因であるとわかりました。
法をよく勉強することが向上の要であり、法をよく勉強しなければ、心性は向上せず、身体もあまり変化しません。煉功は身体を変える手段です。よく煉らないと、体の変化が追いつかず、身体が高エネルギー物質に変化せず、または完全に変化していないので、表面がまだ物理的な体の場合、「病気」が発生するのです。師父は病業を消滅してくださることで、私を向上させられますが、旧勢力が抜け道を利用して私を病業で迫害します。出世間法の佛体の修煉には病業の関がなく、心性の関だけがあり、これが違いです。迫害の実態を伝えて人を済度し、発正念も行わなければならず、学法も煉功することも怠ってはなりません。
なぜ、私が乗り越えられたのか。根本的には、私を弟子として扱い、常に守ってくださった師父の慈悲があったからです。私は自分が大法弟子であり、煉功者であり、すべての事柄について師と法を信じているのです。師父はずっと前に私の体を浄化してくださったと思います。今の体の間違った状態は背負わなければならない業力で、償うべき借りであり、病気ではないのです。師父から与えられた法輪と、演化してくださった功は、病気が発生するとすぐに滅し、業力のことを気にしません。師父は「煉功者としてあなたがいつも病気のことが頭から離れなければ、それは、求めること、病気を求めることにほかならず、そうなると病気が本当に身体の中に侵入してきます」[4]と説かれました。
煉功者である私が、なぜ師の言うことを聞かず、自分の感覚や常人の常識、医者の診断などを信じてしまうのか。師父を信じなくて、何のために修煉するのでしょうか。
身体のしびれ、かゆみ、痛み、めまいなど、つらい思いも、師父が按排されたカルマの解消かもしれないし、私の精進の低さに対する棒喝かもしれません。感謝しましょう。功や生命体など、師父が演化してくださった良いものが動いているのかもしれません。嬉しい限りです。邪悪が借り者を操って借金を取り立てるかもしれません。 油断は禁物です。迫害を認めず、許しません。借金は返さなければならず、返せば身が軽くなるのです。
辛い思いは痛く、特に死の間際の痛みはリアルでした。 佛になるのは、そんなに簡単なことではありません。苦しむことで徳を積み、カルマを解消するのです。病気で苦しむのも苦しみです。耐え切れなくなったら、病院に行ってもいいのです。しかし、遅かれ早かれ、死と苦しみへの恐怖を取り除かなければならず、生死の試練は遅かれ早かれ避けることはできません。遅すぎるよりは早いほうがよいと思います。
生と死はすべてが按排されています。そして、真の修煉者にとって、それはまったく病気ではありません。同修のなかには、「修煉していない家族や一般の人に理解されないことや、事故によって大法の信用を落とすことを恐れて、病院に行く」人もいれば、病院に行って体をほぐし、また修煉したいと思う人もいました。私には、それらはすべて言い訳であり、人の狡猾さであるように思えます。 本当に師父と法を信じて、正しく修煉したらどうなるでしょうか。「做すところ到るは是れ修なり」[1]なのです。
師父、ありがとうございます。同修のみなさん、ありがとうございます。合掌。
注:
[1] 李洪志師父の詩:『洪吟』 「実修」
[2] 李洪志師父の詩:『洪吟』 「無存」
[3] 李洪志師父の詩:『洪吟二』 「師徒の恩」
[4] 李洪志師父の著作:『轉法輪』