文/上海の大法弟子
【明慧日本2023年3月27日】私が修煉を始めた当初、座禅をするとき片足しか組めず、しかも数分しか続けられませんでした。30分組めるようになると両足を組んで双盤の練習をしました。8カ月後には両足を組んで座禅ができ、さらに8カ月後には両足を組んで1時間座禅ができるようになりました。それ以来、時折自分を緩めてしまうこともあったりしますが、殆ど毎回1時間座禅をしています。
ある日の夜中、嘔吐や下痢をしたのですが、翌日普通に出勤しました。仕事を終えて職場を出ると、体調が優れず、帰る途中も嘔吐しました。帰宅してそのままベッドに横たわり、すごく疲れたと感じ、朦朧とした中で、「寝てはいけない。今日はまだ静功を煉っていない」という念がありました。どのくらい時間が経ったのかわかりませんが、起き上がり静功を煉りました。「少しでも長くしよう」と思ったのですが、体調が悪かったので45分で終わらせました。それでも私は、「よく頑張った」と思いながら足を崩しました。なんと、立ち上がった瞬間に、体の不調の症状がすべて消えてしまって、すっかり楽になったのです。大法は本当に素晴らしいのです! それ以来、静功を1時間以上するようになりました。
静功を煉り始めた当初は、右足を左足に乗せるとき全身の筋肉が緊張してしまい、どうしてもリラックスできませんでした。それでもなんとか上半身はまっすぐな状態を保つことができたのですが、30分もすると足の痛みが始まり、それも徐々に激しくなり、姿勢を崩してしまいました。時々、組んだ足に何十本もの針が刺さっているような痛みで、まるでどこかの皮膚が破れたかのように痛み、腱が引っ張られて切れそうな痛みを感じてしまい、どうしても顔が歪んでしまうのでした。しかも、体は前に傾き、背中を丸めてしまうのですが、それでも音楽が終わるまでは、決して足を崩すことはしませんでした。音楽が終わって右足を下す時も、かなり痛みました。しかし、「もしかして、黒い物質の業力が取れたかもしれない」と思うと、嬉しくなったりもしました。
修煉を始めてから、自分が以前たくさんの業を作っていたことを知りました。子供の頃、夏休みに田舎の祖父の家に行くと、友人と遊んでいろいろな生命を殺生しました。あの悲惨な場面が深く印象に残っています。大法を学んだ後、そのことを思い出すと、殺生した生命に申し訳ない気持ちで、深く懺悔しました。ですから、今の苦しみは私の自業自得だと思いました。
座禅が完全にができるようになって5年ほど経った頃、足の痛みに変化がありました。以前は皮膚、骨、筋肉など、体の「表面」に痛みがあったのですが、その後、体の「内部」から放射するような痛みに変わりました。耐える力がついたと思ったので、座禅の時間を75分まで延ばしました。大体後半になると痛みが増してくるので、意志の錬磨だと思って続けました。ある日、25分を過ぎたあたりで足が痛み出し、「まだ半分も経っていない、あとの方が長いのでどう耐えていくか」と怖くなりました。「やはり、このことを考えてはいけない」と思ったのですが、45分過ぎるころには、私の姿勢はすでに痛みによって変わってしまい、呼吸も乱れ、音楽もとても長く感じました。
60分になったころには、痛みで体が震えており、足を少し動かしたいと思ったのですが、結印の手はそのままでした。その時、子供のころ自分が殺生した生命のことを思い出しました。「私は作ったその業を返さなければならない」と考えると、結印の手は離せませんでした。激しい痛みで口は開いてしまい、顔は歪み、頭は下へ向き、足の内部の深いところから発した痛みで、足が爆発しそうだと感じました。
やっと75分になりました。合掌もそこそこにして、慌てて両手で右足を下ろそうとしましたが、まるで右足に何トンもの重いものが乗っかっているようでした。力を絞って足を下しましたが、激痛で思わず声を上げてしまいました。視覚も聴覚もなくなり、手足もどこにあるか分からず、空気が凍ったようで、立つことができるまでにすごく時間がかかりました。その日、家族は誰も家にいなかったのが幸いでした。私の様子を見たら、きっとショックを受けるに違いないと思いました。
しかし、座禅の過程がどんなに辛くても、終わって立ち上がると、体のすべてが元通りに戻っており、足が軽く感じられるのでした。その頃、土日の朝は五式の功法を一気に煉り、後の時間は法輪大法の素晴らしさについて書いた手紙を持って、自転車で1時間半から2時間かけて、いろいろな郵便局を回りながら手紙を投函しました。
2021年10月以降は、両足を組むとまだ痛みがあったのですが、その痛みの箇所の周囲に粒子が流れているのを感じ、痛みが多少和らぐのでした。私は激しい痛みがあってもできるだけ姿勢を保ち、持久力が向上したと感じました。しかも、体が以前ほど硬くはなく、足を下ろすことはそれほど難しくない程度にまでなりました。
足を組む時間が長くなるにつれ、多くの奇跡を体験しました。あるとき、手を結印した直後、右手の前腕が透明になっている部分が見えました。足の親指も同じ現象が現れたことがあり、玄妙でした。また、師父が天目について説かれた現象も私が座禅していたときに一度体験しました。両眉の間の肉が集まって内側に押し込まれ、その範囲は10円玉より一回り小さいくらいでした。ある時、足の痛みで背中が少し曲がっていた時、突然心臓が脈流のようなものに撃たれたように感じました。それで背中が一瞬でまっすぐになり、とても心地よかったです。
私は11年間大法を修煉してきましたが、修煉することができる自分はとても幸運だと思っています。修煉する前の私は、お金が欲しい、一等地の家に住みたい、出世したいなど、いつも妄想でいっぱいでした。修煉してからは世の中のすべてのものは、おいしい食事さえも「徳」というもので引き換えなければならないと理解し、妄想を捨てました。
私は経済的に余裕もあり、年齢的にもまだまだ生きられるかもしれませんが、そんなことはもう重要ではありません。重要なのは、師父の救い済度を得られたこと、そして、師父が本当の家へ帰る道を按排してくださったことです。私が人に対する借り、神に対する借り、知らされていない借りなど、すべての私の借りのほとんどを、代わりに背負ってくださったのは師父です。修煉者は、功を伸ばすためには、徳という物質が足りなければなりません。私は、修煉を通して座禅して苦を嘗め、意思を錬磨し、毎日少しずつ白い物質という「徳」を蓄えることによって、功徳を積むことができると思っています。
ですから、私は師父の教えに従い、よく法を学び、筋骨を労することを恐れず、心性を向上し、三つのことをしっかり行うよう心がけていきたいと思っています。
偉大な師父の救い済度に感謝いたします!