文/欧陽子雲
【明慧日本2023年6月19日】賀知章(注:下記参照)が西京の宣平坊に住んでいた時のことである。家の向かい側に小さな木戸門があったが、そこからいつもロバに乗った老人が出入りしていた。5、6年経っても、老人の顔色も服装も変わらず、何も変化がなく、家族の姿も見当たらなかったので、気になって近所の人たちに聞くと、老人の苗字は王、市場で銅銭を繋ぐ時に使う紐を売っているそうで、ほかの職業には就いていないという。
この老人(後に、道教を修めた仙人だと悟る。以下、仙人)を注意深く観察すると、非凡な人物であると感じた賀知章は、しばしば仙人のもとを訪れた。男の子の召使を従えており、賀知章に対していつも礼儀正しく、慎重に接していた。そして、仙人に職業を尋ねると、何気なく答えた。接触が増えるにつれ、次第にお互いを尊重するようになり、話す内容も深まり、仙人は自分は道教を修めていて、錬丹術にも詳しいと話してくれた。賀知章はもともと修道思想を持っていたので、喜んで仙人を師と仰いだ。
その後、彼と妻は仙人に真珠を贈り、「故郷でもらったもので、長年大切にしてきた」と言い、「道教」を教えてくれるように頼んだ。真珠を受け取った仙人は、それを召使いに渡し、市場へ餅を買いに行かせた。召使いは、その真珠を三十数個の餅と交換し、その餅で賀知章を招いた。
賀知章は、真珠を特別に仙人に与えたのに、仙人はそれを軽々しく使ったので、とても不愉快になった。老人は「道教と法は努力して得るものではなく、心で得るものだ。富や財産に吝嗇(りんしょく。ケチの意味)にならなければ、道を得ることはできない。まして、都会で生活していては道を得ることは難しい。山奥の谷に入り、ひたすら修行に励むことだ」と語った。賀知章は仙人の話から多くのものを悟り、礼を言って立ち去った。
数日後、仙人(老人)は姿を消した。そこで賀知章は、官職を辞して故郷に帰り、道を修める道教に入った。
注:賀 知章(が ちしょう、659年 - 744年)は、中国唐代の詩人・書家で、字を季真といい、会稽郡永興県(かいけいぐん えいきょうけん)の人。賀知章は若い頃は文才があることで知られていた。進士(しんし。隋から北宋中期にかけての科挙の六科の一つ)に抜擢され、太常府の博士(たいじょうふのはくし。宗廟・礼儀を管轄)に昇格した。賀知章は性格は闊達で、四明狂客(しめいきょうきゃく)と自称していた。酒を好み、酒席で感興の赴くままに詩文をつくり、草書を得意とした。詩人として一流で、李白とも交友があり、代表的な詩として『回郷偶書』、『詠柳』などが上げられる。
(参考資料:『太平広記』)