文/中国の大法弟子
【明慧日本2023年9月3日】修煉者同士の褒め合い、へつらうこと、修煉者自身の自慢話、自己顕示欲は、大法弟子の間で深刻なマイナスの役割を果たしています。この方面の教訓はあまりにも多いのです。最近、修煉体験でこれらのことについての交流文章がよく掲載されていますが、私はほかの角度から自分の理解を話したいと思います。
明慧ネットで、「へつらうこと」で修煉に与える妨害についての多くの記事が掲載されているのを見て、「同修の間で、お互いに少しも褒める言葉を言えない」と考える人もいるかもしれません。我々修煉者は、同修から指摘された問題に十分注意を払うべきなのですが、やり過ぎてもいけないのです。そうかといって「同修間の褒め言葉のすべてが、相手を持ち上げることだ」とみなすべきではありません。
どちらも他人のことを良く言うものなのですが、「へつらうこと」と「お世辞」は、普通の褒め言葉とか、励ますこととは違いがあります。「へつらうこと」、人を持ち上げることは「私」のためであり、名や情という魔性によって動かされた堕落した行動です。完全に人のためだったら、他人がより良くなることを願うならば、少し適切な褒め言葉をかけることは良いことだと思います。それによって、同修がより精進し、同修の正念が加持されるプラスの効果がありますが、物事は行き過ぎないようにした方が良いのです。
例えば、ある修煉者が人に面と向かって、法輪大法の真相を伝えることを恐れていたとします。その彼が、いつかその恐怖心を打ち破り、自ら外へ出て行き、大法の真相を伝え始めたとします。しかし、うまく伝えられず、「三退」する人数は少なかったのです。そのとき、私たちは彼を褒め、励まし、彼の行いを肯定し、「とてもいいですよ。これはいいスタートですね。これからどんどんよく伝えられるようになりますよ」と言ってあげるとよいと思います。励まされた彼は、もっと頑張ろうという気持ちを持つようになり、ますます良くなると思います。もし私たちが彼に「大法のことがよく伝わっていませんね。あの同修を見てください。1日に何人も脱退させたのです。資料もかなり配りましたよ」と言ってしまうと、彼は落胆して引き下がるかもしれません。
同修の間での心からの称賛は有益であり、互いを促進することになります。以前、私は刑務所に拘禁されたとき、ひどい殴打に耐えた後、同修から親指を立てて「よく耐えました!」と言われたことがあります。それは私にとって大きな励ましとなり、修煉していく決意がさらに堅くなったのです。
修煉の道でつまずき、関をうまく乗り越えられず、円満成就に自信を持てない同修がいます。もし私たちがそのような同修に対して、よくできたことを肯定して、適切な励ましができれば、同修はきっとより良く修めることができ、自信を持つようになると思います。もちろん、褒められた同修は、歓喜心を起こさず、自分がすごいと思ってはいけません。
また、私たちが人に大法の真相を伝えるとき、相手との距離を縮め、真実を受け入れやすくするためにも、相手のことを適切に褒めても良いと私は思っています。