文/中国の青年大法弟子
【明慧日本2023年9月7日】「嫉妬」は、自分と他人を比較することから生じるものです。この世にはまったく同じ人間が存在しないため、比較の結果は二通りしかありません。一つは、他人が自分よりいくつかの面において優れています。例えば、卓越した能力、美貌、赫々たる地位、恵まれた生活など、こうした例はたくさんあります。もう一つは、他人はいくつかの面では自分より劣っているものの、生活がそれほど悪くないことです。例えば、能力がそれほどないのに高い地位にいるとか、外見も暮らし向きもそれほどよくないのに良い伴侶に恵まれているとか、金持ちに生まれつつ向上を目指して努力しようとしないとか、人柄や素養が低いのに人生を満喫して楽しく暮らしているように見えるなどです。
他人が自分より優れている時に嫉妬心が生じるのは、実は常人の次元で問題を見ているからであって、常人が憧れて追い求めているものを重く見すぎて、物事の本質や結果の裏にある因縁関係を見ていないからです。徳があって初めて果報に恵まれるのです。他人が優秀であれば、それは彼が生々世々において積み上げてきた福徳によるもので、当然の成り行きでもあり、何か妬むことはあるのでしょうか?
自分より劣っている人を軽蔑するのも、実は嫉妬心であり、彼の現在の境遇において、彼に対する要求がもっと高く、もっと厳格でなければならないと思うからです。一例ですが、勤め先の食堂はバイキング式の食事を提供していて、料理やお菓子が豊富で美味しいため、一部の女性はデザートやパスタを包んで持ち帰ります。彼女たちの行為を目にしたとき、私は彼女たちの素質が低く、貪欲だと思い、すぐに軽蔑の念が生じました。深く掘り下げてみると、その裏には嫉妬心が隠されていました。私が怨むことも悔やむこともなく、法理の要求に従い、余分なものを取らないようにできたのは、「失わなければ得られず」[1]の道理が分かっているからです。しかし、他人が取っていくのを見ると心のバランスを失い、自分が損をしたかのように感じます。嫉妬心には利益心、食べることに対する貪欲心が混ざっていて、同時に従業員に彼女たちを止めてほしいという思いもあって、これでは憎しみを煽る心まで生じたのではないでしょうか? 嫉妬心は諸刃の剣のようなもので、他人を傷つけ、自分の向上をも妨げてしまうのです。実際のところ、彼女たちは余分に持って行ったとき、お金を使わなかったものの、徳を使い徳を失ったのであって、少しも利益を得たわけではありませんでした。迷いにいる人間は、何と哀れでしょう!
同僚との間でも、人を見下す嫉妬心が隠されています。例えば、同僚の中には、コネを通じてどこかの楽な部署に異動してもらってから仕事をいい加減にこなし、その日暮らしをする人がいます。彼女たちがいい加減に仕事をこなしているからといって、私の仕事の量が増えるわけではありませんが、彼女たちの不甲斐なさを見ると、見下してしまうのです。業務に精通しない上司を見ても不満を感じ、心のバランスが崩れます。深く掘り下げてみると、彼女たちが努力せずに現在のすべてを有することに対し、自分は嫉妬心を抱きながら、潜在意識の中で、「彼女はこんなに劣っているのに、どうして彼女の人生をこのように按排することができるのですか?」と神に疑問を投げかけているようです。これでは、神に対して業を造ったのではないでしょうか?
師父はこのようにおっしゃっています。「あなたが自分では何でもよくできると思っていても、運命の中にそれがありません。ところがある人は何をやっても駄目に見えていても、運命の中にそれがあるから、幹部になったのです」[1]
自分の修煉に責任を負う観点からみれば、私たちの本質は精進して着実に修煉することによって返本帰真し、衆生を救い、法を正す師に手伝うことです。師父が私たちに与えて下さった時間は、精進して着実に修煉するためのものであって、右顧左眄して優柔不断に行動するためのものではありません。他人を妬むことは、立ち止まって他人のことに干渉するようなもので、修煉には何の益もなく、執着だけを助長してしまうのです。
このような物語があります。木こりと羊飼いの2人が森の中で偶然に出会い、意気投合して会話に花を咲かせ、いつの間にか夕暮れになっていました。羊飼いは満腹になった羊の群れを追って家に帰りましたが、木こりはそのとき初めて、自分が1日の時間を無駄にして、手ぶらで帰宅しなければならないことに気がつきました。私たちは常に自分の使命をはっきりと認識しなければならず、妬みであっという間に過ぎていく時間を無駄にしてはなりません!
常人を嫉妬する必要は全くありません。まず、私たちには本質的な違いがあります。私たちは法を正す師に手伝う大法弟子であり、全宇宙で最も幸福な生命なのです。どうして迷いの中で無知に業を造り、苦しくもがく衆生を妬むのですか? 私たちと世人との関係は、彼らを救い、因縁にけりをつけ、その過程で自身を向上させるだけなのです。
また、嫉妬心は修煉者を常人の次元に縛り付けるロープのように実質的に存在する物質です。食べ物や娯楽、名声や富、恨みや憎しみなど、これらの世間の他のものに執着しても同じです。これらの三界内の物質はあなたの思想の中に隠れ、あなたが向上しようとするとき、それらはあなたにへばりつき、あなたを人間の次元に引き戻します。執着すればするほど、あなたの体が重くなります。どのようにして三界から抜け出ることができるのでしょうか?
同修に対して、なおさら嫉妬心を抱くべきではありません。私たちは世に下るまでの因縁関係を知らず、成就してから同修に会いたくてもなかなか会えないかもしれません。師父はすべての弟子が圓満成就できることを望まれています。私たちはお互いを嫉妬すれば、同修が悪くなることを望んでいるのではありませんか? これは旧勢力が見たい結果であって、師父が望まれていることではありません! 修煉は進学試験と違い、採用の比率が決まっていて、平均点によって入試の一定の基準が変動し、他人が劣れば、自分の受かるチャンスが大きくなる競争関係ではありません。修煉において、師父は圓満成就できる定員などを決められておりません。天国世界は無量無辺であり、基準を満たせば上がって行き、満たせなければ誰も上がって行くことはできません。師父が終了の時間を再三に延長されているのは、弟子たちの誰もが自分に見合う各次元の「基準」に到達できることを望まれているからではないでしょうか?
師父はこのように明確に言及されています。「ここには一つの決まりがあります。すなわち人間は修煉の中で、嫉妬心を無くさなければ正果を得られないもので、そうしなければ絶対に正果を得ることはできないのです」[1]。私たちは真にこの言葉の重みを理解し、この心を取り除くことの重大さに気づき、さらに真剣に深く掘り下げていき、きれいに取り除いたのでしょうか?
大道無形の道を歩んでいますが、私の心には境界線があり、俗世にいながら、「念はこの世にありません」[2]。常にはっきりした意識を持ち、漏れるところなく修煉して、初めて円満に成功を収めることができます。
個人的な体得であり、妥当でない部分があれば、同修の慈悲なるご指摘をお願いします。
注:
[1] 李洪志師父の著作:『轉法輪』
[2] 李洪志師父の著作:『各地での説法五』「二〇〇五年マンハッタン国際法会での説法」
(編集責任者:林一平)