文/未署名
【明慧日本2023年9月29日】普通の常人としても、他人の話を遮ることは非常に失礼なことです。同修、修煉者の間では、このような行為を気にしないかもしれませんが、それでも失礼です。自分がなぜ相手の話を簡単に中断してしまうのか、内に向けて探すべきです。
重要なことを突然思い出し、時間内にそれを言う必要がある場合などの特別な状況下では、それは別の問題です。習慣的に相手の話を遮ってしまう人の多くは、修煉者が取り除くべき悪い物質があるかもしれません。これらの機会を掴んで、修煉者の向上を妨げるこれらの物質を速やかに取り除くべきです。
相手の話を遮るには、さまざまな場面や状況があり、一概には言えませんが、この点について自分の理解を話したいと思います。
一、争い欲
自分は理解力が高く、相手が言いたいことをすぐに理解できると感じているため、自分の「優れた理解力」、「賢い」ということを顕示するために話を遮る人もいます。そのため、時々同修がまだ二言三言を話しただけで、それを拾って話してしまうことがあります。話し続けた結果、自分が表現したいものになってしまい、同修の話したかったことを混乱させてしまいました。
私は、この行動には「中国共産党の9つの遺伝子のうちの6番目の遺伝子である『略奪』」があるのではないかと考えています。ここでの略奪は、争って同修の話を略奪することを指しています。これは、同修の話したい願望を略奪することであり、争って自分の言いたいことを先に表現することであり、先に他人の言うことを定義してしまうことです。
二、顕示欲
ここでいう顕示とは、自分の認識が他人よりも優れていることを指すという意味だけではなく、名声や情に執着することから生じる欲望も含まれます。
この種の表現は潜在的なものから露骨なものまで、一種の自己顕示欲です。本質的には、依然として功績を見せびらかしたく、求めたいということです。「言わなければ、誰も知らない」という考えから、言うことによって「損をしなくなる」、「自分の努力は無駄にならない」のであり、言うことによって不当な扱いを受けることはないと思うのです。
私たちは法の中から、修煉者の行為、一つの考え、一つの念が宇宙に記録されていることを知っていますが、それを同修に見せる必要はなく、各次元の神佛がみんな見ています。
三、話したいという欲求
話したいという欲求は、実は気にかけてもらいたい、同情してもらいたい、認めてもらいたいなどの人間の情によって引き起こされています。
特別に話したいときは、自分自身を振り返って何かの執着がないかをチェックし、修煉を向上させる機会として捉えるべきです。
四、表現欲
争って話すことは「自分」を強調することになります。「私」が言いたい「私」が表現したい、「私」が先に言います。 他人への配慮ではなく、自己中心的になります。
師父は「以前の基点は『自分』のためですが、大法が造った全ては『自分』に執着しません」(『各地での説法四』「二〇〇三年アトランタ法会での説法」)と説かれています。
「私」の現れは、自分の寛容な心が足りていないことであり、または自分の考えと一致しないものを排斥したり否定したりすることです。即ち、法を以って自分を修めるのではなく、自分の理解を用いて他人のすべてを測ることです。
五、狭さ
同修の話がまだ終わっておらず、言いたいことが十分に表現されていないとき、相手の話をさえぎって反論し、相手の理解を否定したりします。急いで自分の理解や見解を表明しようとするとき、多くの場合、自分自身の主観的な思い込みが強くなり、これは視野の狭さの現れです。まだ他人を理解していない段階で、自分はすべてを知っていると勝手に思い込み、他人の言うことを定義してしまいます。
法理に関して「この文はこういう意味、あの文はああいう意味」と言う人がいますが、意図せず法を曲解してしまい、特定の文を定義してしまうことがあります。私は法を歪曲していないと言う人もいます。 しかし、あなたの言動、考え方は無意識のうちにすでにその枠に入ってしまっていて、牛の角先に入り、大量の知識に溺れるような感覚になっているのかもしれません。
同じことを何度も話した同修もいます。 自分自身の修煉を定義せず、枠を作らず、障害物を残さないでください。あまりにも昔のこともあり、とっくに忘れ去られるべきこともあります。自身の要らないものを捨て、絶えず法に対する理解を深め、法を以て自分を充実すべきです。
以上は自分の現時点での理解ですので、不足があればご指摘ください。
【編集者注:この文章は筆者の現時点での個人的な認識を代表しているものであり、同修の皆さんと切磋琢磨し「比して学び比して修す」のためのものです】