文/河北省の大法弟子
【明慧日本2023年10月29日】最近、師父の新経文と明慧編集部の記事が立て続けに発表され、私たちはますます修煉の厳粛さを認識させられました。へつらうことと自分の心より魔が生じることが広く議論されました。特に最近、地元の同修が迫害され死亡した事件が「へつらうこと」と大きく関係していることから、この問題は改めて私自身の職場での体験を思い出し、深く考えさせられましたので、同修と共有するために書かせていただきました。
2014年、私は30人以上の同僚とともに姉妹校の中学校に赴任しました。新しい学校では、毎年恒例の「効率的な授業の公開授業」が行われ、各教科ごとに一人の教師が公開授業をし、この活動は1日かけて行われます。新任教師である私は、公開授業をすることになりました。
当時、得意だった授業をするのではなく、自分の指導の進捗状況に合わせて新しい授業を行ったので、特別な準備はしていませんでした。にもかかわらず、その授業は先生たちから大絶賛されました。教えるのが上手で、まとまりがよく、無駄なことは一言もなく、などとその日はみんなが褒めてくれていました。特に他の先生と比較されて、より私のレッスンが引き立てられ、それ以来、新しい学校では、誰もが私の能力を賞賛し、多くの人々が私に会うたびに称賛してくれるようになりました。
元々は自分のレッスンが如何に優れ、如何に素晴らしいなどとは思っていなかった自分が、これらの賛辞とへつらいによって、徐々に自分のレベルが高く感じ、自分のレベルがトップであることを感じ、のちにその日を自分の「ハイライト」という風に感じました。元々自分はまだ若く、業務において多く学ぶことがあり、まだ長い道のりがあるのに、それ以来、顕著な進歩はありませんでした。 (2015年末、江沢民告訴に参加したために、授業の第一線から退けられ、業務の勉強を続ける機会を失った)
この出来事から、へつらわれた後の心理的変化をリアルに感じ、その弊害はかなり深刻であることがわかりました。 それによってもたらされる結果は、1、簡単に人々を前進させなくなる。2、謙虚さ、謹慎さ、敬う心を失わせる。3、いい気になって、傲慢尊大になる。4、だんだんと他の人を見下し、他人が眼中からいなくなる。5、自分より強い人に対し納得できず、嫉妬心が生まれるなどなど。
同修がお互いにへつらう場合、結果はさらに深刻です。ほめられる人は往々にしてある面で優れている人です。例えば大法の真相をよく伝えられている、より多くの人が救える、悪の迫害に強い正念を持っている、しばしば外で真相伝えの活動をする人が捕まることがあるが、彼は無事だったなど。一人、二人が褒めると、師父が『轉法輪』の中で「人が心を動じないのは非常に難しい」とおっしゃられたように、褒められた同修の執着心が表れれば、この同修は徐々に自分は偉い、人よりうまくできると感じるようになる。 これが自分の心より魔が生じる始まりです。
多くの場合、自分の心より魔が生じる人の心理は少しずつ変化するが、実質と結果は同じです。このような浮ついた心理作用の影響で、彼は自分の良い面しか見ず、自分はすべての面において非常に優れていると思い込み、自分の欠点と不足に徐々に気づかなくなります。誰かに執着心を指摘されると、面目を保つ心、名利心の下で、自分の執着心を覆い隠し、認識できなくなってしまいます。それは必ずしも意図的に隠しているわけではなく、本当に自分の欠点に気づいておらず、自己満足の心が自我を失わせたのです。また「良く修めている」という見た目を維持するために、意図的に覆い隠し、認めない人もいます。
この時、邪悪に迫害されやすいが、自分の心より魔が生じた人は、師や法を思い出せません。自分の正念が自分の魔性に隠され、盲目になっているため、彼の正念は働きません。魔難がやって来た時、それは圧倒的なもので、この時、同修が正念で迫害を否定することも、解体させることもできません。師父は慈悲深く、師父のご加持と保護の下で、時間を延長して機会を与えてくださいます。しかし、難は長い時間延ばされても、同修は迫害を否定することができず、恨む心が生じやすくなってしまいます。魔難の中で多くの人は「私はこれだけ多くのことを行い、多くの人を救ってきたのに、なぜまだこのようなことに遭遇するのか?」と考えるようになります。これでさらに迫害を受けやすくなり、最後には迫害によってこの世を去る人もいます。自分の心より魔が生じた人が迫害された根本的な原因は、へつらうことによるものなのです。
この教訓は深刻です! いま、私たちの地元では、自分たちはよく修めていて、よくできていると思っている人がいます。また、大法のことをすることイコール修煉だと考えている人もいますが、これは非常に危険なことです! そのような同修は、あることを忘れています。あなたが持っている成果や能力は、すべて師父と大法からもたらされたものなのです。また、へつらいと称賛されたとき、師父の法を忘れてはなりません。「修煉者として、常人の中で遭遇した一切の苦悩は、みな関を乗り越えることであり、遭遇した一切の褒めたたえは、みな試練なのです」、『精進要旨』「修める者はおのずとその中にいる」
大法弟子として、どんな時でも師と法を忘れてはなりません! たとえ魔難がどんなに激しく迫ってきても、私たちの心に師父と法がある限り、正念の部分を守ることができ、師父は私たちを助けてくださると信じています! 修煉者である以上、私たちは絶対に師父と法を尊重しなければならず、自分がすごいと少しでも思えば、それは邪悪があなたを滅ぼそうとする始まりです。
この理解の段階で、不適切な所は慈悲なるご指摘をお願い申し上げます。