文/アメリカの大法弟子
【明慧日本2023年11月12日】過去の数年間、海外では確かによくない現象が起き、海外へ出て来たばかりの同修たちの中に存在し、それがだんだんと早期に出てきた人たちへと移ってしまいました。私は比較的早い段階に海外に出てきました。以前の同修たちは、まだ法理に基づいて交流し合い、共に精進していましたが、神韻の宣伝が成熟した後、心を緩めてしまいました。また、より多くの新しい同修が参加してきて、それに伴い法理に合わない問題も生じ始めたのです。「へつらう」ことはそのうちの一つの問題かもしれません。
海外に出て来たばかりの同修が、重用視されたいとき、へつらいます。また、長年、重要な項目に携わってきましたが、修煉環境を生活環境とみなすようになり、同修が同僚や友人となり、心を修めることも名誉や利益、情への執着と維持へと化してしまいました。
みんな利己的になると、徐々に後ろ盾の硬さや財力、権力、地位などの比較が増え、修煉を疎かにしてしまうでしょう。互いに譲り合い、他人のことを考えるのではなく、誰々が昇進したとか、誰々がチャンスを手に入れたとかを重視するようになるでしょう。いかなる人心も落ちていく原因です。
アメリカでは、みんな平等を重んじ、加えて党文化が本来の「仁・義・礼・智・信」を破壊したため、気づかないうちに、師父への不敬、いうことを聞かないなどのふるまいをしてしまいます。つてを捜したり、さまざまなずるがしこい方法を考えたり「近道」を探したりなど、これにより、一部の同修はまるで人心が潤されたかのように、さらに強くなっていき、しまいには修煉環境の中で悪役を演じているのです。
現実社会には多くの妨害と誘惑が存在しています。利益を失いたくないからほかの同修を仲間に引き込んだり、他の人は師父に会えたのに、自分は会えなくて嫉妬したりなど、さまざまな人心が作用して修煉の対立側に立つことさえあります。「すべての苦悩は関なのです」試練に直面したときこそ、心性を高めることにほかなりません。
人類社会は急速に衰退しており、法をしっかり学んでこそ、悪いものに隙に付け入られないのです。
【編集者注:この文章は筆者の現時点での個人的な認識を代表しているものであり、同修の皆さんと切磋琢磨し、「比して学び比して修す」のためのものです】