文/中国の大法弟子
【明慧日本2023年11月12日】迫害が始まってから10カ月後の2000年5月、私は法輪大法を修煉することの合法性を訴えるため三度北京に陳情に行きました。戻って来ると、雇用主は私を職場の小部屋に監禁しました。経営陣によると、北京に二度行った者は強制労働収容所に送られるので、つまり、彼らは私を小さな部屋に閉じ込めることで私を「救った」と言うのです。
毎日、上司が私の様子を見に来ました。他には20代の若い警備員5人が交代で監視しました。彼らは何もすることがないので電気棒で遊び、そのパチパチという音はいつも心臓が強くつかまれた様な辛い気持ちにさせました。
私は法輪大法の教えを学ぶことができず、相談できる家族や学習者もいませんでした。私を支えてくれたのは、大法と李洪志師父への信念だけでした。
ある日、私は天井を支える梁に掛けられたロープを見上げて「ここで首を吊ったらどうだろうか?」と思いました。そのとき私は、「私は大法弟子なので、師父が禁止されたことはできない!」と思いました。(※: 法輪大法は自殺を含む殺人を禁止している)
翌日、工場長が党の副書記を連れてやって来ました。彼らは1時間以上私と話しました。「法輪大法について明確に認識する必要がある、そうでない場合は、別の場所に送る。警察にはあなたのような頑固な人のための特別な拘置所がたくさんある」と言いました。
私は黙っていました。彼らは私に法輪大法の放棄を強制することが出来ず、失望して去りました。工場長はまた、警備員に対し、テーブル、椅子、ロープなどを部屋からすべて撤去し、ベッドだけを残すよう指示しました。
私を警察に送るという彼らの脅しを考えると、私の恐怖はさらに増しました。子供の頃から、殴られるのが怖く、迫害について恐れを抱けば抱くほど、さらに多くの問題が起こりました。
数日後、妻が私に会いに来ました。彼女は同じ工場で働いていましたが、法輪大法を修煉していませんでした。彼女は、工場が私に法輪大法の修煉を止めなかったという言い訳をして、(私の給与を停止した後)最近、彼女の給与も停止されたと私に言いました。彼女は子供の幼稚園の入学金さえ支払う余裕がありませんでした。工場から彼女の給料をもらう唯一の方法として離婚する事を求められました。
当時私は大法の法理についてあまり理解していなかったので、同意しました。私は離婚調停は望んでいないと言いました。私は彼女に、将来経済的に余裕ができたら養育費を支払うつもりだと言いました。その時、彼女からその様に言われても何も感じませんでした。しかし、彼女が去った後、私は恐怖、憂鬱、絶望、そして不安感に圧倒されました。修煉はとても大変だと感じて、涙が出てきました。
さらに数日後の5月18日、私と妻は、監視の為の2人の警備員と共に、離婚を申請するために結婚登録所へ行きました。書類にサインするとき、私も妻も泣きました。その痛みは言葉では言い表せないほどでした。
バス停まで歩きながら、私は妻に北京に行く計画を呟きました。ここ数日間、私はこのことを考えていました。私には何も残っていないので、警察が私を拘留するのを待つだけではなく、逃亡の機会を見つけて北京に行き、大法の正しさを訴えようと思いました。彼女は警備員に見られることなく、すぐに持っていた現金30元を私に手渡してくれました。
私にとって決断を下すのは簡単ではありませんでした。私が直面していたプレッシャーは巨大な山のようなもので、あらゆる種類の心配や恐怖に対処しなければなりませんでした。しかし、心が安定しないときは、いつも師父の次の言葉を暗唱していました。
「もし天象変化の下でその通りに動く人がいなければ、常人社会にある種の状態がもたらされることがないのですから、天象の変化とはいえなくなります」(『轉法輪』)
職場の留置場に戻った後、私は行く準備を始めました。二度目に北京に行ったとき、拘留場所から脱出して徒歩で北京に来た20歳の大学生の修煉者に出会ったことを思い出した。3月でしたが、中国北部ではまだ天気が寒かったのです。しかし、彼は薄着のまま北京まで歩きました。私も同じようにすることにしました。
壊れた鍵をなんとか見つけ、ドアの正常な鍵と交換する機会も見つけました。ある夜、私は鍵を外し、無事に部屋から出ることが出来ました。隣の警備員のいびきが聞こえました。私は柵をよじ登って急いで立ち去りました。
一晩中歩くのを止めませんでした。午前6時までに私はすでに市内を離れ、隣の郡にいました。その時までに私は疲れ果て、足には水脹れができていました。その時、道端に廃屋があり、部屋には麦わらが山積みになっているのが見えました。休憩のため中に入ってみました。
私が藁の上に横たわろうとしたその時、家よりも高いところに師父の法身が現れました。師父は大きな手で私を抱きしめ、「弟子よ、ここで休みなさい」と言われたのです。それから彼の巨大な手は私をわらの上に置きました。私は慈愛に満ちたエネルギーに包まれました。その温かさと優しさは言葉では言い表せないほどでした。横になった瞬間、涙が私の顔に流れ落ちました。師父は私があらゆる困難を乗り越えて大法を実証するために前進するのを見て、最大限の助けを与えて下さいました。 私は大法を実証するために北京に行かなければならないと決心しました 。
北京まで歩くのは簡単ではありませんでした。私はすぐにあらゆる問題を経験し始めました。私の街から北京までは約700キロ(435マイル)ありました。私は革靴を履いていましたが、歩きやすい靴ではありませんでした。最初の2日は足の裏が痛くなり、その後足全体が痛くなりました。その後、ふくらはぎが痛くなり始めました。その後、脇から足にかけて痛みが出てきました。その後、どこが痛いのか分からないほど、全身が痛くなりました。歩くととても痛くなりました。しかし、止めるとさらに痛くなりましので、歩き続けるしかありませんでした。
疲れて続けられなくなったとき、それは空腹だと分かりました。饅頭を買って休憩して歩き続けました。食べ物がなくなったら、道端にあるものを拾って食べました。ある朝、私は1時間以上歩きましたが、喉の渇きと空腹のために続けることができませんでした。すると、溝に割れたスイカが数個落ちているのが見えました。半分を拾って食べました。それは私が人生で食べた最高のスイカでした。その味はこの世の何よりも美味しく、ほとんど神がかった様なものでした。
5 月の気温は日中 20°C (または 68°F) を超えることもありますが、夜間は 10°C (または 50°F) まで下がります。毎朝、寒くて震えて目が覚めました。井戸の家、溝、野菜の温室、原っぱなど、さまざまな場所で寝ました。都会で育った私は、子供の頃からヘビ、虫、ネズミが怖かったのです。しかし今、私には恐怖感はまったくなく、恐怖について何も考えませんでした。師父が私から恐怖の物質を取り除いて下さったことを私は分かっていました。
確かなことが一つありました。私は常に正しい道を進んでいたということです。私がこれを知った理由は 二つあります。一つは、3回目の北京行きは他の修煉者と自転車で行ったので、道順は大まかに覚えていたのです。次に、道を間違えると必ず誰かが来て、「どこへ行くの?」と聞いてきました。私が北京に行くと聞くと、彼らは「北京まではこの道を歩かなければならない」と言います。私は彼らが示した方向性を疑ったことはなく、何度修正されたか覚えていません。師父が私を導いてくださっていることが分かりました。
時々、私は法輪大法の実態を訴えるために北京に行くと人々に話しました。時間が許せば、法輪大法がどのように不当に迫害されているかをもっと時間をかけて説明したいと思いました。共産主義政権が天安門焼身自殺のデマを捏造する前だったため、ほとんどの人々は大法に対して憎しみを持っていませんでした。彼らは政府がそれを禁止したことを知っていました。
一度、私は残っていた数枚の小銭で女性からアイスキャンディーを買いました。彼女は私にキャンプ用の椅子をくれて、どこに行くのかと尋ね、私は「北京」と答えました。
「何のために?」と彼女は尋ねました。
「私は法輪大法の修煉者であり、その修煉は非常に優れています。しかし、中国共産党政府は私たちが修煉することを許していません。彼らはまた、私たちを拘束して殴り、労働収容所に送りました。これは間違っていると当局に言わなければなりません」
「ここには法輪大法の修煉者もいます」と女性は答えました。「彼らの中には逮捕された人もおり、洗脳センターに送られた人もいます」
それから彼女は交差点を指差しながら私に「この道路にはあなたのような人たちを阻止する役人達がいます。その役人はよくそこらに潜んでいます。そこを通るときは、巻き込まれないように注意してください」と言いました。私は彼女の優しさに感動しました。
別のアイスキャンディーを買いたかったのですが、もうお金がありませんでした。私の様子に気づいた彼女は、自分で持ってきた氷水を私に差し出してくれました。私は彼女と話をするために留まりました。彼女は、彼らの地域ではここ3~4年雨が降っていないと言いました。若者たちは仕事を求めて家を出ていき、取り残されたのは女性、高齢者、子供たちだけでした。彼女は砂埃が舞う遠くの畑を指さして、「ほら、干ばつで作物が枯れてしまったのよ」と言いました。
しばらく話をした後で、再び出発しました。彼女の情報のおかげで、私は検問所で捕まらずに済みました。
外は本当に暑く、干ばつと風が続いていたため、いたるところに砂埃が舞っていました。汗だくであまり早く歩けませんでした。暗くなったので、私は森に立ち寄り、そこで一夜を過ごすことにしました。どのくらい眠ったのかはわかりませんが、木の葉に当たる雨粒で目が覚めました。私は立ち上がってプラスチックのカバーを見つけて歩き続けました。
雨はますます強くなり、避難所を見つけることができませんでした。肌までびしょ濡れになりました。私は夜明けまで歩き続けました。体力も残っておらず、眠くてお腹も空いていました。橋を渡ると大きなコンクリート管が見えたので入って休憩しました。コンクリートの管の中に座って、私は「女性は、ここでは3、4年雨が降っていないと言っていた。彼女の優しさが祝福をもたらしたのかもしれない」と思いました。
毎日毎日、私は歩き続けました。一緒に歩いてくれる同修を見つけたいと思っていました。数日後、私は孤独への執着を手放す必要があることに気づきました。それで私はその考えを放棄しました。
時々、あきらめたり、「飢えと疲労で死んだらどうしよう」と考えたりしました。しかし、師父と大法を信じて乗り越えることができました。
5月27日、早朝からウォーキングを始めました。21時くらいにはもう疲れきってしまいました。道路わきの果樹園に小屋が見えました。私はそこに行って石板の上で寝ました。それから間もなく、寒さと風の中で目が覚めました。もう眠れなくなったので、歩き始めることにしました。
数時間歩いて暗闇の中に明かりが見え、歩き続けていると誰かが「ちょっとそこのあなた! どこに行くの?」と声をかけました。
「北京へ陳情に行くつもりです」と私は答えました。
「ここに来て!」と男は叫びました。
そのとき私は、屈強な武装警官が短機関銃を持って建物の前に立っているのを見て、ここが北京に入るためのチェックポイントであることに気づきました。
私は彼のところに行き、「私は法輪大法の学習者で、陳情に来たのです」と言いました。
これを聞いた警官は銃口を私のこめかみに押し付け、「よくも党に反対するな!」と叫びました。「今すぐ殺してやる!」
「私は党に反対しているわけではありません。弾圧は間違っているので、法輪大法の事実を証明するためにここに来ただけです」と私は落ち着いて答えました。
すると、50代くらいの男性がやって来ました。彼は人々が北京に控訴に行くのを阻止するために特別にそこにいるようでした。彼は私を検問所の後ろの部屋に案内し、彼は私を怒鳴ろうとしましたが、私がここまで歩いてきたことを聞くと、怒鳴らずに座るように言いました。その後、中国共産党の政策について1時間以上話しました。しかし、私は彼の言うことを一言も聞きませんでした。彼は疲れてまた寝てしまいました。時計を見ると、5月28日の午前2時でした。旅行を始めてからちょうど10日目でした。
午前7時頃、彼らは私を道路脇の電柱に手錠で縛り付けました。北京に入るすべての車両は書類手続きのために停止する必要がありました。どの運転手も私を見て「なぜここにいるの?」と尋ねました。
「私は法輪大法の学習者です!」と答えました。
最初は少し恥ずかしかったのですが、しばらくしてから、私は何も悪いことをしていない大法弟子であることに気づきました。そこで私は顔を上げてドライバーに話しかけました。10日間歩き続けたので顔は埃だらけでしたが、気分は上々でした。何人かのドライバーは私に親指を立てました。
正午までに2人の警察官が来ました。彼らはいくつかの書類に記入し、私を警察の車両に乗せました。しばらくして、私たちは北京の大興区警察署に到着し、書類手続きのために私を中に入れました。
「あなたは法輪大法の学習者ですね。なぜ北京に来たのですか?」とそのうちの一人が尋ねました。
「迫害は間違っていると中央政府に言いたいのです」
「そのために北京まで歩いて来たんですか?」と彼は尋ねました。
「はい!」と私は答えました。
その時、別の警察官の肩が震えているのに気づきました。700キロ以上歩いて訴えに来た私の行動に、2人とも衝撃を受けているのがわかりました。
その後、警察は私を大興区拘置所に連行しました。私の心は穏やかで、その状況を見て少し幸せさえ感じました。10人以上が大きなベッドを共有していましたが、少なくとも冷水でのシャワーを浴びることができました。そして、各食事には大きなトウモロコシの蒸しパンがありました。これらのすべては、私が路上で過ごしていたものよりもはるかに上等でした。
大興区拘置所に2日間勾留された後、私の市の警察官が私を迎えに来ました。彼らの一人は私に親指を立て、「あなたは私たちの街に栄光をもたらしてくれました!」と言いました。北京の連絡事務所に到着すると、彼らは私に親切に対応してくれました。安心して幸せな気持ちになりました。
私の街に戻った後、地元の警察は私をだまして拘置所に送り込み、25日間拘留しました。その後、当局は父に私を迎えに来るように通知しました。父は私が頭を下げて歩いているのを見て、「頭を上げなさい! あなたは何も間違ったことはしていません。これはあなたの信念なのです」 と言いました。
その後、私は大法を訴えるためにさらに数回北京に行きました。当時の私の理解は浅く、圓満成就に対する執着もありましたが、それでも最善を尽くしました。
当時を振り返ると、最も困難な瞬間にいつも師父の次の説法が私に力を与えて下さいました。
「わたしがむかし修煉していた時、多くの高人がこんなことを言ってくれました。『忍び難きは忍びうる。行ない難きも行ないうる』。実際その通りです。皆さんは帰ってからぜひ試しにやってみてください。本当の劫難に直面した時、あるいは関門を乗り越える時に、試してみてください。耐え難いものを耐えてみてください。乗り越えられそうもないと見えても、行ない難いと言われても、本当にできるかどうか試しにやってみてください。もし本当にやり遂げられれば、きっと「柳暗リュウアン 花明ファミン 又ユウ 一村イーチュウン」というように、眼前に新たな世界が開けることに気づくに違いありません!」(『轉法輪』)