文/中国の大法弟子
【明慧日本2024年1月16日】大法弟子たちは、仕事や生活、社会的な活動の中で、さまざまな人々と出会い、軋轢が生じ、否定的な感情を抱くことがあります。 私たちが、常人達(大法弟子を迫害したことがある人、真相をどうしても聞き入れない人、真相資料を平気で捨てる人など)を見て、恐れ、焦燥、退屈、険悪感などの感情を抱くとき、師父の気持ちを考えたことがあるでしょうか? 師父が世人の代わりに多くの苦しみに耐えて下さったので、 世人はこの世に生存する機会を得たのです。 世人が生きているのは何の為なのでしょうか? 救われるのを待っているのではないでしょうか? 私たちの否定的な感情は衆生の救いに影響を及ぼすでしょうか?
同修が修煉して心性の関を乗り越えるのは容易でないことは理解できますが、世間では「晴れやかな人生を送ろう」とも言われるのですから、私たち大法弟子は「兵士が来れば武将で阻み、水が来れば土を淹れる」ような大らかな精神力と問題解決の能力を持つべきではないでしょうか? 大法弟子は皆、師父の恩に、感謝していますが、師父は私たちの実践する行動を見ておられるので、もし私たちがしばしば恨みや恐れを抱いているならば、師父のご苦労を思い浮かべれば、そのような否定的な考えは完全に消えるまで薄れていくでしょう。
さらに、私たち大法弟子の修煉の要因は、前世における様々な因果の結果とも関連している可能性があります。ですから、軋轢が生じたら、私たちはそれに直面し、目を向け、解決するのです。そうすることで、私たちは師の導きを受け、大法の導きを受け、真の自己の正念を強めることができるのです。師父がなぜ私たちに法を学び、暗記し続けよとおっしゃったのか、その意味がまた一つ理解を深めた気がします。
師父はかつて「トラブル自体の出現状況に限って言っても、常人社会の中のトラブルとは違います。大法弟子の場合には、修煉するためにトラブルが現れており、法を実証するためにトラブルが現れています。中に人心、顕示心、個人の執着、自分を実証したいという要素があったとしても、大法弟子として、いったん問題に気づくと、彼らはそれを改めることができます。これは常人とはまったく違います。ですから、大法弟子の中にトラブルがあり、このトラブルはまた別の作用をしています。つまり、このトラブルがいったん現れると、ほかの人に波及し、その人がトラブルに気づくと、さらにトラブルが激化するようにさせ、修煉者自身も気づくことになります。トラブルの中で、内に向けて探すことができれば、自分自身の足りないところに気づくことができます。トラブルが明るみに出なければ、トラブルが現れなければ、あなたは自分の執着に気づくことができず、見つけることができません。すべてが平和のままであれば、修煉できるのでしょうか? 」 (『各地での説法七』「米国首都法会での説法」)と説かれました。。
争いに遭遇したとき、私は師父の教えに従い、行動し、まず内に向けて探し、「さっき、私は 相手のことを恨んだのか、いや、恨んでいたのは私ではない、ならば、恨んだのは誰だろう? 偽りの自分? そう、偽りの自分だ。 その偽りの自分はいらない、いらない、いらない。 まだそこにいるのなら、瓦解してしまえばいい。 そう、崩壊させるのだ。 完全に崩壊していないようだが、 それなら、大法弟子が利用できるよう、原始の気に転換させればよい! 旧勢力のいかなる指図も認めず、邪悪が常人を操って、大法弟子の気持ちを揺さぶることができないようにし、全ての衆生が救われる機会を見逃さない」と自分の意念を正すのです。
以前、私が「衆生を救いたい」と言った時、私の基点は「自分は円満成就したい」という強い願望でした。しかし今、私が「衆生を救いたい」と言う時、私は「師父のご苦労を無駄にすることはできない、師父が微笑まれることだけを願う」という基点に変わりました。