文/中国の大法弟子
【明慧日本2024年1月25日】15年間の結婚生活において、私はまるで天劫(修行として天から与えられる罰や災い)を凌いでいたように、さまざまな苦難と苦痛を経験してきました。10日ほど前、借金を抱えたまま辞職してしまった夫は仕事が見つからず、私がいる大都市に働きに来たいと言い出しました。彼の言動が私の生活および衆生を救うことに妨害をもたらすだろうと思う度に、私は心が苦しくなり、本当に夫に来てほしくありませんでした。
しかしそのとき、「私は彼を排斥している」と気づきました。思えば、私はいつも同修のAさんとBさんが他の同修を排斥していると口癖のように言い、自分も夫に対して心から拒絶しているのではないかと思いました。実は、2人の同修が他人を排斥していると見えたとき、私は自分自身を見るべきでしたが、そうしませんでした。その後、2人の同修が私まで排斥し始めても内に向けて探さない私を、2人の同修は無視するようになりました。また、同修たちの私に対する拒絶は表から見て取れるのに対し、私の夫に対する拒絶は心の奥底に隠れていて、誰にも見えないものでした。一時、私は夫の借金の返済を手伝い、人々に感動まで与えましたが、実はそれは私の夫への反感と拒絶を隠すための形式的なものに過ぎませんでした。この心が変わらない限り、どれだけ立派なことをしていても偽りなのです。以前、AさんとBさんが私の前で他の同修が悪いと言っていた時、私は何もそれが悪いとは感じませんでした。言い過ぎていたAさんとBさん、そして嬉しく聞いていた私の三者は、まったく同じでした!
考えてみれば、AさんとBさんの私に対する排斥は、私の修煉を助けるものでした。2人のそのような行動がなければ、私はどうやって自らの夫への排斥に気づくことができたでしょうか。一瞬にして、私は悔しさを感じなくなり、観念も変わって、2人の同修が私を助けていたのだと思い、度量も大きくなりました。以前の私は、より寛容になることで度量が大きくなるとばかり思っていましたが、観念が変わることで度量は何倍も大きくなるのだと分かりました。そして、2人の同修もトラブルの中で向上しており、私たちは堅牢で壊すことができない一体であり、お互いを惜しみなく支え合っているのだと感じました。同修たちとの(排斥の)トラブルも人に苦痛を与えるものではなく、全体がある次元に達してから、さらに昇華していく中での状態のように感じました。法に則って認識することができれば、すぐに全体の質的な変化、大きな飛躍を遂げることができると思いました。
また、本当に心から夫を排斥していないなら、彼を来させるべきだとも考えました。内心に反感を抱きながら、「反感を覚える心は要らない」と思うのは、矛盾ではありませんか? そこで、私は40平米の部屋を又貸しして、80平米の部屋を借りました。転貸も賃借も驚くほど順調で、価格も一番安かったのです。家を借りた後、私は夫を迎えました。当日の学法で、新しい法理が次々と現れてきたのは、自分の心性が向上したためだと思いました。
風邪をひいてひどい咳をしていた夫は、ショウガスープを作ってくれと頼み、次の瞬間にまた夕飯を作ってくれと頼んできました。夫が私に奉仕を求めたとき、私は師父が私に衆生を守る心を修めるように要求されていると悟り、夫の悪い言動が見えたとき、私は師父が私に他人を理解し寛容になるように要求されていると悟り、夫のために何かをして疲れたとき、私は師父が私に他人のために苦を嘗める犠牲の心を持つように要求されていると悟りました。これらの高尚な品性を持つためには、必ずふさわしい人が目の前に置かれ、その人にそう接することができるように鍛えられてできることであって、想像だけでは達せないことです。
夫はもともと風邪の症状が強かったのですが、引っ越してきてだいぶよくなりました。「あなたは肌が白くて、頬に赤みがさしてきた。表情も生き生きして、昨日よりずっと若くなった」と私が言うと、夫は「あなたのお陰だ」と言いました。私は少し恥ずかしくなって、「私ではなく、師父があなたを助けて下さったのです」と言いました。
以上は個人的な体験に過ぎず、不足している部分は多くあると思います。同修の慈悲なるご指摘を宜しくお願いします。