【明慧日本2024年2月16日】私は大都市で働いており、いつも独りで修煉をしています。休みの長い短いに関係なく、必ず故郷に帰ります。帰省するたびに、同修の母が他の同修とアポイントを取り、交流の場を設けてくれます。私はこの同修との貴重な時間を大切にしています。慈悲なる師父の按排に感謝しています。
今年は特に時間が経つのが早く、あっという間に2024年になり、会社の年休は1か月以上は取れなくなりました。父は突然「旧正月を祝うのにそちらに行こうか、それとも、いつものように故郷に帰って来るのか」と聞いてきました。妹は2人の子供がおり、故郷に帰るつもりでしたが、父が突然聞いてきたのは、おそらく私たちの街に来たいのだろうと言いました。父は旧正月の後、私の家に来て、私の甥は学校が始まってから家に帰りますと言いました。これで私たちが帰るよりも、家族全員が一緒に過ごす時間が長くなるため、それを聞いた妹は非常に喜びました。
ここ数日、父と妹は毎日電話して、旧正月の予定を立てています。私は不思議で「なぜ突然、こちらに来たいと言い出したのだろう。母がこちらに来たいとは思わないだろう」。夕方、父に電話をすると「まだ決まったわけじゃないから、妹が決めるまで待とう」と言われました。この時私は「何で妹が決めなきゃいけないの。皆、彼女の言うことを聞かなければいけないの」と思いました。そこで「意見を言ってもいいですか」と尋ねました。父は即座に「いや、皆の意見を聞きなさい」と言われました。数日後、妹が私にどう思っているのかと聞かれました。私は「どこで過ごしても同じだから、あなたたちが決めて下さい」と言うと、妹は「母もこちらで旧正月を祝うことを賛成しているので、来年はそちらに行きましょう」と言いました。
彼らを嫌な気持ちにしたくないので、どこでもいいと言いましたが、本当は実家に帰りたかったのです。これは1年間ずっと楽しみにしていた休暇だからです。実家に帰らなければ、同修に会えなくなるし、皆は私が借りた家にずっといなければならないと思いました。妹とは同じ地区に住んでいますが、毎日、妹の家に行くわけにはいかないし、両親もやはり私の家にいることが多いだろうし、父は本当に偏屈で、妹のことばかり考えているし、私の気持ちなんて考えていないのです。妹は本当に自分勝手で、自分たちの面倒を見てほしいから、私は実家に帰れない。考えれば考えるほど腹が立ってきました。
しばらくして、気分が少し落ち着いてから、私は「常人を責めてはいけない、彼らの立場に立ってみると、父は旧正月に親戚のところへ訪問したくなかったし、妹は両親からもっと援助してもらいたがっていました。このような事を招いた自分の人心について、じっくりと考える必要があり、私のどの人心を修めようとしているのだろうか。
私は明慧ネットを開き、2つの記事をクリックしても開きません。そのうちの1つは、嫉妬心の問題について同修が書いたものでした。修煉者に偶然なことはないのです。以前、母は私に嫉妬心があると何度も言われたのですが、私は全部反論し、私は嫉妬心など持っていないし、他人の良いところを嫉妬していないと思いました。きっと師父は、私が気づいていないことを見抜いて、このような形で私を悟らせてくださったのだろう。本当に内に向けて探さないといけません。
ふと、あることが脳裏をよぎって「いつも仕事が終わると妹の家に行き、子供たちの面倒をみたり、ご飯を作ったり、帰り際にごみを片付けたりして、妹が少しでもリラックスできるように家事を手伝っていました。明日から彼女の家に行かなくていいのだ、私の大事な存在に気づくだろう。この心は嫉妬心ではないだろうか。嫉妬は恨みに発展し、それは大きな不善な(悪い)心です。妹はいつも2人の子供の面倒を見ていますが、最近下の子が熱を出して泣いたので、妹は一晩中眠れなかったのです。私は妹がわがまますぎると文句を言いましたが、私がわがままではないのか。今回のことで私は自分のことしか考えず、私は家に帰りたい、同修に会いたい、借りた家で惨めな思いをしている、どうやって食べればいいのか、ここは実家に匹敵するのか。私は自分のことばかり考えていました。妹のわがままを責めていましたが、実際は私の方がわがままでした。
修煉者として常人のようにしてはならず、大法弟子としての風格を備えないといけないと思いながらも、妹ともっと距離を置くにはどうしたらいいのかと考え、脳裏では善と悪の間で迷っていました。そして故郷に帰って、一人で新年を祝おうと思いました。故郷ってどこですか? 突然、心の中で声がした。「天国があなたの家よ。たくさんの衆生があなたを待っているわ」。思わず涙が溢れ出し、そうだ、天国は私の家であり、私は師父の法を正すことを手伝う大法弟子であり、師父と誓約を交わしたから、やはり師父と一緒に帰らなければなりません。地上のことは全て空にある雲に過ぎず、お芝居に深く入り込むことはできません。
私は父が偏っていると思い、同じ待遇を受けたい、手に入らないと心のバランスがとれません。人生にないから、縁や福徳が違うので、得るものも違います。他人が私に良いことを強制することはできないし、他人からひどい扱いを受けると憤りを感じてしまいます。これは嫉妬であり、情なのです。考えが徐々に明確になり、結果に執着せず、自然の成り行きに任せます。もうすぐ12時になるので、発正念をします。
翌朝、私はいつものように妹の家に行き、私は帰省のことに触れず、何も聞かなかったので、妹も少し驚いたようでした。お昼は会社で昼食をとった後、母から電話があり「どう思っているの。よく我慢できたね」と聞かれました。私は「この件は、まだ決まってないので何とも言えないわ」。電話で話すのは不便だったが、母は私の考えが分かって安心したと言いました。電話を終えるとすぐ、妹から電話があり「実家に帰ることに決めたから、安心してほしい」と連絡があった。
ようやく問題が解決し、大晦日にはまた実家に帰り、同修と交流することができるので、とても嬉しいです。
この事件に関して、私は内に向けて探し、師父が私を啓発し、脳裏に師父の法を思い出し、知恵を与えて下さいました。私は「このことでどんな嫌な思いをしても、どんなに辛くても、内に向けて探す一念が正念であり、師父が加持して下さり、知恵を与えて下さいました。「事々対照し、做す(なす)ところ到るは是れ修なり」(『洪吟』「実修」)。やり遂げられれば、きっと新たな世界が開けることに気づくに違いありません。
現在、私は自分が嫉妬心、利己的な心、闘争心を持っていることを認識していますが、苦しみを舐めるを持って楽しみとしていないので、修煉する時間に限りがあるので、これからは必ずよく学法をし、自分を修め、衆生を救います。
以上は個人的な体験であり、皆さんと比して学び、比して修め、共に精進しましょう。