文/中国の大法弟子
【明慧日本2024年3月12日】新世紀とカナダの新唐人テレビが制作したシリーズ映画『あなたのために来ました』三部作の最後の一部である『帰神』を観る機会に恵まれ、非常に衝撃を受けました。
人間のレベルでは、映画の構想やアニメーション効果、そして俳優の演技においても称賛に値します。なぜなら、神の慈悲と純粋さは一般社会で活躍する優れた俳優でも演じることができないものであり、その清浄で慈悲深い場面は修煉者の心の境地の真実の表れであるからです。このような映画を撮影できるのも大法弟子だけであり、映画で表現される内容も大法弟子にしか表現できません。宇宙の末劫、法を正す最後の時期にこの映画が公開されたことは、創世主の弟子や衆生に対する無上の恩寵であると言えます。
修煉の観点から見ると、この映画は多くの天機を明らかにしています。人間の歴史や宇宙の法則、創世主の偉大な慈悲など良い解釈がなされています。特に、迷いの中で修煉している大法の弟子にとっては、修煉の天機が直感的かつ立体的に示されています。これは師尊の無限の慈悲であり、修煉が不精進な弟子に対する叱責や励ましです。
映画における真実の描写から、修煉者の一思一念がいかに重要かを見ることができます。天上の神の一念は彼の果位と成功または失敗を決定し、地上の人間の一念も同様に彼の置かれる場所と生死を決定します。
ここで映画の三人の主人公である光明王、霊鳳、海岳神君について取り上げます。
光明王は、光明天上の祈天大会で天機が現れた際、誓いを立てました。「私は三界に降り、道徳を立て、赤龍を斬り、衆生を救い済度することを願います!」。この誓いは力強く、純粋で慈悲深く、私心が全くありません。人間界では大学で歴史学を選択した光明王は、それでも「この社会にはまだ救いがある」と感じています。彼の思いは、道徳がすでに滑り落ちてしまった社会を救うことです。今世での彼は共産党の支配する中国に生まれ、専攻でマルクス主義を研究しています。彼が無神論の洗脳を受けている深刻さは、想像に難くありません。しかし佛法は無限であり、神に多くの方法があります。教授は、彼に深く掘り下げてマルクスの真の姿を見出すように助言し、邪教の洗脳から覚醒させました。人生の迷いの中で、清風観に行く彼の目的も、この世界には本当に神仙がいて、自分を迷いから導いてくれることを願ったのです。
そして神仙が本当に現れました。それは、無迷智者の化身である清風道長であり、彼に預言書「六谶天書」を贈りました。清風道長は、彼の累世の転生の中で常に「六谶天書」を使って彼を導いてきました。彼の人生の道を指し示して導き、創世主の伝える大法を見つけ、聖縁を受け継ぎ、修煉の道に進むよう導いてきました。
修行中に彼が情に困り、妬みに焼かれるとき、天界で最も陰険で邪悪とされる妬火も、彼が代表する天国の世界を焼き尽くそうとします。しかし、彼が法で自分を正し、師尊の法を繰り返し唱えると、「悪者は嫉妬心によって、私のため、怒りのために、自分が不公平だと言います。善人は慈悲心が常にあり、憎むことなく、恨むことなく、苦をもって楽とするのです。覚者は執着心がまったくなく、幻のために迷っている世人を静かに観ています」(「精進要旨」、「境界」)という一節を唱え、一念を発しました。「私は悪者になりたくない、善者になりたい!」。これにより大法の一念一出に同化し、天界の妬みの火は突然消え、光明天界は再び平和で静かになりました。
彼が牢獄に囚われ、邪悪によって感情で誘惑され、大法を修煉しないことを約束する書類にサインを強いられたとき、彼は夫婦の情に捕らわれ、動揺しました。すると一瞬で彼の天上の世界は崩壊し、暗闇に包まれ、生き物は石化し、天体は揺らぎ始めました...そんな時、彼を訪ねた霊鳳が手のひらに書いた師父の詩を彼に見せました。「大覚は苦を畏れず 意志は金剛より鋳られる 生死に執着無く 坦坦たり正法の路」(「洪吟二」、「正念正行」)。
師父の法は彼に正念と力を与え、彼はすぐに心を明るくし、強い正念を持ちました。一瞬で彼の世界は復活し、再び明るさと美しさが戻りました。
彼が生体臓器狩りの犠牲になりそうだったとき、最初の考えは妻と娘との別れでした。彼は死ぬと感じました。しかし一念が生まれ、彼の霊魂は瞬間的に肉体を離れ、感じたのは天国の明るさと温かさでした。突然、「まだ死ぬことはできない、私の使命(衆生を救済すること)が終わっていない」と思いついた時、彼が発した一念は自分のためではなく、衆生を救うことを考えていました。修煉者の正念は法旨(法の指針・修煉者が進むべき道)です。正念が生まれると、天界の神々は法旨を受け取り、すぐに発正念して、彼も手術台の白衣の悪魔を正面から見つめました。悪魔は彼の正念の力に怯み、退却し、消滅しました。この世界では、供給者である共産党の大臣が死亡したことが表れています。悪は、彼に対する迫害に失敗しました。
師父が法の中で説かれたように、「一人の修煉者にとって、自らを堅め、如何なることがあっても動揺しないという確固たる正念があれば、これこそ素晴らしいのです。金剛のように、磐石のごとく確固としていれば、誰もあなたを揺るがすことができません。邪悪はあなたを見て恐れてしまいます。もし困難の前で、念が非常に正しければ、邪悪の迫害や妨害を前にするとき、あなたが言った、正念の強い一言は邪悪を直ちに解体することができ、(拍手)邪悪に利用された人はすぐに逃げてしまい、邪悪のあなたに対する迫害はすぐ消え、邪悪のあなたに対する妨害を即刻になくすことができます。正しい信念というこの一念だけですが、この正念を守りきることができる人は、最後まで歩むことができ、大法によって造られた偉大な神になるのです」(『各地での説法七』「米国西部国際法会での説法」)
次に、光明天界の鳳凰(霊鳳)について話しましょう。彼女は神々を祈天大会に招待する際に刻限を誤り、天の定めを犯してしまいました。彼女は贖罪の心を抱えて光明王とともに下界に行き、光明王の功績を助けました。彼女の心は完全に純粋ではなかったかもしれませんが、真心によるものでした。しかし天の定めを犯したことで、真念(本来の真の念)は鎖に囚われました。宝書(轉法輪)を最初に手に入れましたが、なかなか読みませんでした。後に光明王の導きで大法の修煉に入りましたが、真の修煉には至らず、入門の段階で長い間、揺れ動きました。迫害が始まると恐れから修煉を放棄し、一般の人間の心に動かされて、道徳の下降に流されていきました。
幸いにも、霊鳳は事前に配慮し、神々も彼女を見守っていました。彼女が迷っている間に、派天界(天界の名前)の羽童が彼女の娘として転生し、彼女の真念を呼び覚ましたため、彼女は再び大法に入り、真の大法弟子となりました。光明王が劫難に直面した際、彼女は彼に最も力強い励ましと支援を与え、行動で自らの罪を補い、光明王の功績を助け、彼女の誓いを果たしました。このような俗世の試練を乗り越えて、彼女は法の基準に達し、新しい宇宙にスムーズに入ることができました。
映画のもう一人の主人公である光明天界の海岳神君は、本当に悲劇的な人物です。しかし、これは宇宙の成、住、壊、滅の法則が末劫に至った時の一つの生命の真の状態でもあります。彼の遅れにより刻限を逸し、彼と霊鳳は祈天大会に間に合いませんでした。しかし、彼は自らの過ちに対して少しも悔いたり、悔い改めたりする気持ちがありませんでした。
光明天王が聖王に従い、下界に行って衆生を救うと聞いたとき、彼の最初の考えは「成功すれば天地創造の最初の功徳になり、天機を逃すことはできない」というものでした。彼の考えは自分の功徳であり、目的は私的なものでした。結果は明らかでした。無迷智者が彼の話を聞いて心配するのも無理はありません。
人間界では、海岳神君は累世の転生の中で、依然として信念を持ち続けていました。それは「私はただ出世したいだけで、この生を無駄にしたくない」という信念でした。彼は今世でも同じ姿勢で、「どんな主義でも、そんなものだ」と考えていました。そのため、共産主義やマルクス主義が邪教であることを明確に理解していても、共産党組織に積極的に接近し、誓いを立てて忠誠を表明し、命を共産党に委ねました。目的はただ出世し、名声を得ることでした。この目標を達成するために手段を選ばず、友人さえも裏切りました。妬みや邪火の誘惑に駆られ、彼は友人を刑務所に送り込んでしまいました。彼の行動は彼自身に選択された運命、つまり滅をもたらしました。実際、これは彼が最初に下界に降りる前の一念が不正であったために生じた難であり、一念が彼の将来を決定していたのです。
海岳神君の来世の目的が純粋でなくても、佛の慈悲は無限であり、彼に機会を与え続けます。無迷智者も彼を啓発し続けました。もし彼が友人の忠告を聞き入れ、『轉法輪』や『九評』、真相を見聞きし、間違いを繰り返さなければ、また未来があるかもしれませんでした。しかし残念ながら彼の真念が閉ざされ、名誉や利益の欲望に囚われ、紅塵の中で深く迷い込んでしまい、神佛からの機会を何度も拒絶してしまいました。彼の最後の結果は人々に嘆息をさせます。
この映画が偉大である理由は、人が神になる修煉界における多くの天機を明らかにするからです。それは、私たちが修煉者として、宇宙の中で注目され、無限の希望を与える存在として、創世主の正法に従う大法の弟子として、「私」を捨て、嫉妬心を取り除き、完全に「無私無我で、なおかつ他人を先に、自分をあとにするという正覚にまで修め遂げなければならないのです」(『精進要旨』「佛性に漏れなし」)。大法に完全に同化し、新しい宇宙に入り、衆生を救う願いを成就し、最終的に自己を成就させることができるということです。