文/イタリアの大法弟子
【明慧日本2024年4月24日】法輪大法を修煉し始め、私は多くの習慣や考え方を捨てなければなりませんでした。これらの習慣や考え方は、私が問題を扱うときの常套手段になっています。例えば、私はよく何かしらの無料プレゼントをもらっていましたが、それに熱中していたわけではなくても、もらったら嬉しかったし、これが大したことだと思いませんでした。
『轉法輪』の中で、次のような物語があります。「北京のある学習者が、夕食の後、子供を連れて前門大通りをぶらぶらしていると、そこで景品くじを宣伝する車を見かけました。子供は面白がって、『買って、買って』と言い出したので、彼は子供に一元を渡しました。引いてみたら、なんと二等賞に当たって、賞品は子供用の高級自転車でした。子供は嬉しくてたまらない様子でしたが、彼は『しまった』と、頭から冷や汗をかきました。『ぼくは煉功者なのだ。こんな物を求めてはならない。このような不義の財をもらうと、どれだけ徳を失うことになるだろうか?』 そう考えた彼は、子供に向かって『それをもらうのをやめよう。欲しいならパパが買ってあげるから』と言いました。子供は機嫌が悪くなりました。『買ってと頼んでも、買ってくれなかったじゃないの。自分で当てたのに、もらっちゃいけないなんて』と子供は泣き叫び、ちっとも親の言うことを聞こうとしません。仕方がないので、自転車を家に持ち帰りました。家に帰った後、彼は考えれば考えるほどまずいと思い、いっそのこと代金を払おうと思いました。しかし、『抽選はすでに終わった。代金を払えば、それが彼らに山分けされるのではないか?』と考え直して、自転車の代金を自分の職場に寄付することにしました」
「このような不義の財をもらうと、どれだけ徳を失うことになるだろうか?」という師父の説法が頭の中でずっと響いていました。 私の理解では、物質的なものを受け取ると徳を失う可能性があり、失うものは得るものに見合っていません。 物質的な利益を得るのは簡単ですが、本当に損をしたのは自分自身であり、特に私は修煉者として、もっと高い基準に従わなければなりません。
しかし、このように思っても、実際にそれを実行するのは簡単なことではなく、私は多くの努力をしましたが、注意しないとまた間違ったことをしてしまいました。
一、無料のプレゼントに対する態度が変わった
最初は、母が「プレゼント」としてくれたお金を断り、母に「私は修煉しているので、もうお母さんのお金を受け入れることはしません」と言いました。しかし、母はいつも「これはお母さんからのプレゼントだから、もらって何が悪いの?」と言いました。
確かに、これは母の贈り物ですが、当たり前に受け取ることができなくなりました。そこで私は、母がどうしてもお金をくれるなら、母の家に行くとき、そのお金で母の食べ物や必要なものを買ってあげることにしました。それ以降、母が私にくれたお金はすべて母のために使い、たとえわずかなお金でも自分のために買い物をしたことはありませんでした。正しいことをするには、今までの考え方を修めなければなりません。
それから、私は買い物をするときに値引きを求めたり、無料のプレゼントをもらったりするのをやめました。 かつては喜んで受け取り、欲しがっていたスーパーの景品が、今では問題だと見ています。
あるクリスマス、私はワインを1本ただでもらうことになりました。予想外のことで、当時の雰囲気から、もし断ると失礼だと思われると思い、仕方なく受け取りました。私はそれを他の人にあげました。考えてみると、このような状況では、「失礼」だと思われても、断るのが一番で、今後、ただの物はすべて断ろうと心に決めました。
今では、私は割引券を含め、無料の品は一切受け取りません。どうしても避けられない場合は、他の人に譲るか、使わないかしています。今は、自分にとって必要なものにお金を払うのが正しいと思います。しかし それを実行するのはそう簡単ではないし、場合によって贈り物を受け取らない理由を明確にしなければならないこともあります。
しかし時には、そのプレゼントは必需品であり、私にとって必要としている場合もあります。 例えば、カレンダーは文房具店で売っておらず、クリスマスや新年の贈り物として店やスーパーで無料で配られるのです。
最初のクリスマスは、スーパーで無料のカレンダーをもらいましたが、後で考えると、「これは受け取るべきではなかった」と反省しました。翌年、文房具屋にカレンダーを売っているか尋ねたところ、無料で顧客に渡していると言われました。私がどうしてもお金を払おうとしても、受け入れてくれなかったので、何か買って、「顧客」になってカレンダーを受け取ることにしました。
しかし、このカレンダーは私が買ったものではないので、わずかな金額とはいえ、修煉者として正しいことではないので、今度は必ずお金を払おうと決めました。それ以降、店側が無料だと言ってお金を受け取らなくても、私は必ず1、2ユーロを店員に渡して、コーヒーを買ったり、慈善として使ったり、チップ箱に入れたりするようにしました。そして彼らにどうしてお金を払わずに物をもらって行けない理由を説明しました。私は彼らに大法の資料を配り、大法の修煉の原則に従って行い、ただで物をもらってはいけないと伝えました。私の話を聞いた彼らはそれを理解しました。
このような状況は何度かありました。実際にこのようにするのは簡単ではありません。なぜならば、その行動がいわゆる「主流」の行動と一致しない場合、物事は難しくなるからです。『轉法輪』の中に書かれたように、子どもが泣くと、父親は自転車を受け取らざるを得なくなるのです。
翌年、私はプリンターを買ってきて自分でカレンダーを印刷すると、とても便利で、上記のような厄介な事を避けることができました。
また、私は街角の建物のポストから販促チラシを取る習慣もやめました。最初はこれらのチラシは無料で、人々が欲しくないと捨ててしまうので、自分は良いことをしていると思いました。後になって、そのような考えは間違っていると気づきました。なぜなら、販促チラシは住民に向けたもので、必要とする人がいるかもしれません。私の行為は、他人がいるべきものを奪うことになり、まったく間違ったことなので、すぐにやめました。
二、1枚の汽車のチケット
ある時、姉と汽車で近くの村に行き、しばらく滞在した後、駅に戻りました。その駅は無人駅で、切符売り場も券売機もなく、近くには切符を売る店もありませんでした。姉はスマートフォンでチケットを買いましたが、私の携帯には支払いシステムがなかったので、乗車したらすぐに切符が買えると思っていました。ところが、汽車の中に係員はいませんでした。わずか15分の道のりで、あっという間に降りました。
チケットを買えなかったことが不安でしたが、そのまま放っておくわけにはいけないと思いました。以前なら、このようなことを気にしなかったし、あまり良くないと思っても、鉄道会社のせいにするか、深く思わずに済んだと思います。しかし今回は違いました。「なぜチケットが買えないのか? これだけ切符の購入に支障が出るのは確かにおかしい」と不思議に思いました。「もしかしたら、以前に多く買って使わなかったチケットを払い戻してもらわなかったため、今回はその分の払い戻しだろうか。しかし、それでも、このような方法を取る必要はないでしょう? 以前のチケットの購入で失ったお金は、過去の借りを返済することになるかもしれない。たとえそうでなくても、私が失ったお金は必ず何らかの形で戻ってくるはず」と考え、今回のチケットのお金を払わなければならないと思いました。今の私は、ただの旅が楽しいとは感じません。修煉者としては、わずかな金額であっても、これがたいしたことではないと思って無視してはいけません。
考えているうちに、これは試練かもしれないと気づきました。一人の常人なら、それを無視して忘れて、何もなかったかのように扱えば一番簡単です。修煉する前の私もそのようにしました。しかし、それは間違っています。今の私はそのようなことはできません。
また、私には面倒くさがる習性があり、必要でない限り、どんな努力もしたがらないのです。今はそれを修めなければなりません。私は次に到着する駅でチケットを買う方法を考えました。「そうなると、切符売り場の人におかしいと思われないか? 家に帰る切符と前回の切符、同じ日の2枚を同時に買うのは変に聞こえないか? 1枚は前の汽車の切符だと解釈してもおかしくないか?」と不安でした。
私にはメンツを重んじる執着心もあります。他人におかしいと思われたくないし、他人に説明したくもありませんでした。
師父は『轉法輪』の中で、くじに当たった自転車の代金を職場に寄付した物語で、「幸いなことに、彼の職場には、法輪大法の学習者が多くいました。上司も彼のやり方に理解を示してくれました」と語られました。
その行動が「主流」にそぐわないと、サイコパスのレッテルを貼られる可能性があるので、チケット売り場の人に「馬鹿げた正直さ」だと笑われるかもしれませんし、「正直すぎる」と思われる可能性もあります。
切符売り場の人が「2枚目のチケットも今日ですか?」と聞いてきたので、私の予想は当たっていました。私は「そうです」と答え、何も説明しませんでした。
これでやっと安心しました。「これは素晴らしい解決策だ」と自分に言い聞かせ、お金を払い、多くの困難と執着を乗り越えました。
その過程は本当に大変でしたが、最終的には「向こうの責任なので、お金を払わなくても問題ない」という頑固な気持ちを克服することができました。ほとんどの人が正直すぎると思うかもしれませんが、私は修煉者であり、正しく行なわなければなりません。たとえ人々におかしいと思われても、それが正しいことなので、親切に説明します。
家に帰って『轉法輪』を勉強していると、本の中の1、2センチの小さな部分が黄金色になり、私の手にも1、2センチの金色が光っていました。「これは師父が、私のしたことは正しいと教えてくださっている」と思うと、驚きと同時に嬉しく思いました。
その後、汽車に乗った時、チケット販売機が故障したり、車掌がいなかったり、同じような状況が何度もありましたが、私は到着した後で切符を購入しました。
私はこのことがとても重要だと思っています。なぜなら、ストレスがあって苦労したことを解決するのは簡単ではないからです。しかし、私はこれを克服して、他人の判断に左右される習慣を取り除きました。
このことを通して、私はいくつかの古い観念を取り除き、いわゆる「主流」に背く時にも負担を感じず、自分を「正直すぎる」と思わなくなりました。複雑な状況に突き当たった時、私の心は更に穏やかになり、できる限り大法に従って行なうようになりました。
以上が私の現在の理解です。