【明慧日本2024年4月24日】最近学法して内に向けて探し、いくつか新しい悟りを感じました。師父は「一部の人は修煉を始めた当初、確固たる決意を持っていました。しかし、一部の人は長期的に形成された各種の執着を修煉してもなかなか放下できず、時間が経つにつれ、自らを緩めてしまいました」(『大法修煉は厳粛である』)と説かれました。
大法弟子は三つのことを良く行わなければなりませんが、私は正にこのような状況で、ずっと精進することができず、気を緩めることが多く、しばしばだらけてしまいました。このような気の緩みは自分でも無力感を感じており、一種の魔難であることを明確に認識できず、真剣に否定し、確固たる正念を持ってこれを突破することができていません。
私はこの最後の鍵は修煉者が決して緩んではいけないと悟りました。修煉中に気を緩め、長い間形成された放下できない主な執着とは何でしょうか。
先日、怨について書かれた同修の体験文章を読みながら、自分の問題を考えました。突然荷物が開かれたような気がして、それまではっきり自覚していなかった怨が一杯出て来ました。色んなことを細かく見てみると、多くの場面にこの怨が反映されていることが分かりました。
この怨を一言で言えば、自分自身の人念に固執していると言うことになります。どのように表れているでしょうか。思うように満たしていれば満足し、逆だと不満を抱くでしょう。例えば、欲望が満たされない、自分の好みに合わない、心のバランスが満たされない、自分の劣った面への不満、他人の欠点への不満、続く迫害のなかの時間についての執着、学法して上の空になり、煉功する意欲が湧かない無力感、真相伝えの際抵抗にあった時の悔しさ、同修と協力する際に嫌われる時の不満等々です。実際、不満や不平があるなら、それは修煉者の基準に達しておらず執着なのです。法をよく学ばなければ、真に法を理解することができず、何かをするたびに混乱し、動揺し、執着になります。
この怨は利己、情、嫉妬から来るものであり、今まで蓄積された業力でもあります。修めれば排除されますが、放下しなければ、どんどん溜まって行き、簡単にコントロールされてしまいます。考えは人と神に分かれ、正念でなければ人念であり、いつも緩める状態に陥り、修煉することができず、次第に安逸心が増え、真剣に執着心として取り除く決心をせず、この魔難を乗り越えたくないようなもので、この業力を消したくないのです。
あらゆる執着の根源を見てみると、それは全て利己であり、自分を中心に回っています。利己主義は旧宇宙の特徴であり、人間の場合は利己に感情が加わり、様々な人の観念を形成します。修煉者が法に同化し、新宇宙へ向かうことを妨げるものは全て執着と魔難です。魔難の中で修めなければ向上することはできません。
師父は「もう一つは、あまりに多くて重い人心を持ち、問題にぶつかると法に則っておらず、人心で対処している大法弟子を見下しているからです。ですから、正しく行なわなかった人は難が大きくなります。このまま長く続くと非常に危険なのです!」(『大法修煉は厳粛である』)と説かれました。
なぜ危険でしょうか。私は気を緩めると「初志貫徹すれば修煉は必ず成就する」(『大法修煉は厳粛である』)ことに達すことができないことを悟りました。
法をよく学ばず、理解できず、修煉も上手くいかず、真に修める意志を達成することもできません。緩めると、苦しい状態になってしまい、快適になれるでしょうか。精神的にも肉体的にも不快な気分になり、全ての苦しみに耐えなければなりません。放下できない時は修煉するのを難しく感じてしまいます。あなたを苦しみを感じさせ、手放すことが出来ないのは業力であり、本当に意志があるなら手放すことができるのです。
宇宙の法理に反しているのは人の理です。緩める状態にいれば、あなたに不快な感覚を与え、精進して執着心を取り除こうとすれば心が引き裂かれるような不快な感覚を与えるのです。迷いと反理の中で、どのように修めるかにかかっています。私がしっかりしていない時、容易に人心を自分だと思い、いつも向上できません。一世一世ついている業力は、体の中に「自然」に存在しており、注意を払わなければ、それに気づかないまま動揺するのです。法に従わず修煉するのは流れに逆らうことですが、私は気を緩めて、流れに逆らっておらず、すなわち修めていないことになります。
私は努力しなければなりません、同修の皆さん、法を修め共に精進しましょう。
次元の限りがあり、法に符合していなければ、慈悲なるご指摘をお願いします。