文/ドイツの大法弟子
【明慧日本2024年4月29日】最近、私は明慧ネットで他人を尊重し、他人に敬意を払い心を修めることについての二つの記事を読み、非常に感銘を受けました。著者は自我、尊大、他人を見下すこと、傲慢さ、および傲慢な自己などに言及しています。私にも同様の問題があることに気づきましたが、程度の違いがあるだけです。
同修や家族とのいくつかのトラブルを思い出すと、本来は善意であったはずの交流が最終的に相手を怒らせ、トラブルを生んでしまったことがあります。自分では理屈を説明したつもりでも、相手に不満を持たせてしまいました。今振り返ってみると、自分が傲慢で尊大だったため、悪を以て悪を制していたことが分かります。後天的に形成された傲慢で尊大な偽りの自分が見えました。これは修煉の中で修めていくべき課題です。
最近起こった出来事を挙げると、私の夫と家に駐車場を貸しているインド人との間でトラブルが生じました。この人は最初から賃料を非常に低く抑えており、市場価格よりも低い額を提示しました。ここ数年、ドイツではインフレが非常に高くなっており、すべてのものの価格が上昇しており、管理費や駐車場の料金も上がっています。夫はインド人に現在の市場価格での駐車場賃貸料の継続を求めましたが、インド人はこれを拒否しました。夫は彼との契約を解除しようと考えましたが、インド人は同意せず、半年間も駐車場の料金を支払わなくなりました。この出来事により、夫はこのインド人に対して非常に否定的な考えを持つようになりました。
私は夫に「最初にその価格で彼に貸すことに同意したのであれば、それは何らかの因縁関係かもしれないし、以前に彼に借りがあったかもしれません。この生涯で返さなければならないので、我々は常人と良い関係を築かなければなりません。つまり、善縁を結ぶことです。何人かのインド人と接触しましたが、彼らはとても親切です」、「市場価格に戻すことを彼が同意せず、彼の反応が非常に激しいのは、きっと何か因縁関係があるのでしょう。私の考えでは、自然の成り行きに任せて、損をするなら損をするしかありません」と言いました。その時は穏やかに話していましたが、突然、夫が怒り出し、私に教育される必要はないと言いました。その時は、彼がなぜそんなに怒っているのか不思議に思いました。今では、私には潜在的な傲慢な心があることに気付きました。潜在意識の中で、高慢で自分の方が他人よりも優れていると思ったので、話す態度が上から目線でした。
以前、年配の同修とトラブルがありました。彼女との交流中、彼女の法に合っていないいくつかの行動を指摘すると、彼女に怒られました。これも私の高慢な自我が作用していたと思います。私たちが傲慢な心を持っていれば、誰ともコミュニケーションを取る資格がないと思います。
師父は『洪吟』(四、五、六)の歌詞の中で、伝統に戻ること、伝統を復帰させることについて何度も触れておられます。私も何度も真の伝統に戻るとは何かを考えてきました。最近、多くの伝統文化の物語も読みましたが、古代人の最も大きな特徴は寛大さと謙遜であることに気づきました。しかし、私たちこの世代、特に大陸で育った人々は、中国共産党に注入された「人定勝天(人間が神に勝つ)」という傲慢さに満ちています。また、ちょうど中国経済が急速に発展し、学校では頭の良さで大学に進む時代です。特に私のような人々は、少し賢いだけで、勉強をあまりしなくても大学の良い学部に入り、深センで外資企業に入ることができ、大企業での転職も成功し、人生で一定の成功を収めることができます。その結果、自惚れや高慢な心がますます膨れ上がってきます。
最近明慧ネットの通報の中で通報された何人かの人たちは、私と同じくらいの年齢で、皆それなりに能力があり、自己評価が非常に高いのです。そして、法輪功を学んだ後、宇宙の真実についていくつか知識を得たように見えますが、かえって自己中心的で傲慢になり、最終的には自己破壊の道を辿ります。私自身の16年間の修煉の道を振り返ると、かつて自分の悟性が良いと思っており、自分の行いも悪くないと自己満足していました。しかし幸いなことに、時には自覚し、心を痛めながら自分の内側に目を向け、問題を深く探り、自分自身が偉大だと思っている心は幼稚で愚かであり、修煉者にとって非常に危険であることに気づきました。自分の多くの理解は浅薄であり、佛法の前では自分は幼い子供にすぎないということに気づきました。自分が悟ったものはすべて一定のレベルの認識であり、その一つだけを知り、その二つを知らず、さらに高い、さらに高い、さらに高い法理があり、佛法は果てしないものです。
人々を救う中で、師父も私に自分の問題に気づかせてくださいました。例えば、ある時、真実を語った後、その人が同意して退党したにもかかわらず、最後に「あなたの教えに感謝します」と言われたことがあります。その時、自分が自己満足で他人を指導しようとしている態度を持って話していたことに気づきました。また、信仰を持つ人と何度か出会いましたが、彼らは自分の信じるものを固く守り、他人が言ったことを全く聞き入れようとしませんでした。内省すると、自分にも自己満足の心があることに気づきました。
同修たちが傲慢な心についての交流記事で、『九評』編集部が共産主義の究極の目的について述べた言葉を引用しています。ここで少し引用してみたいと思います。
「修煉しようとすれば、誠意を示し心を正しなければならないが、傲慢(ごうまん)などは悪魔の本性であり、修煉の要求と相反している。共産主義邪霊の眼中に神はなく、修煉の文化を破壊する過程において、人々にひたすら魔性や傲慢を注ぎ込み、自己満足、傲慢を励ましているのです。たとえば、『天地と戦う』、「法もなし天もなし』などによって、人々が神に逆らうようになった」
「古代の時、人は心を正し誠意をもってはじめて修煉することができた。心の中で神性が作用してはじめて、宇宙の特性と神の説法を悟ることができる。共産主義邪霊は修煉文化の破壊を通じて、人の傲慢さを増長させ、人が神と完全に対立するようになった」
サタン、申公豹、そして釈迦牟尼の一人の弟子が最終的に地獄に堕ちたことを思い出しました。彼らは皆、傲慢で尊大であり、最終的に魔道に入り、反対の方向に走りました。この教訓は非常に深刻なものです。個人的な理解では、傲慢な心を取り除かなければ、大法を完全に受け入れることはできません。法を読んでも理解できず、ある一定の認識に留まり、精進することができません。自分の不足を真に認識できず、他人を正しく見ることができず、相手の長所を見出すことができません。傲慢で尊大な人は、偏見と狭量の中にあっても知らず、修煉を精進することはまったく不可能です。このような状態が長く続くと、非常に危険です。魔があなたを誘惑し賛美しに来ます。邪悟に向かう人々はこのような状況にあると見受けられます。また、自分自身にもこのような悪い物質があることに気付きました。自分の行動や言葉を厳しく見つめ、すぐに不要なものを取り除く必要があります。
現在、インターネット上では、一部のキリスト教徒が私たちを攻撃し、中傷しています。もちろん、彼らの中には傲慢で尊大な人もいます。同時に、大法を支持する人々の中にも、特定の大法弟子の言動や投稿について微妙な意見を持つ人がいます。彼らが指摘するのは、自惚れて上から目線で他人を教えようとする行動や心構えです。このような心性は、相手に大法から発せられる慈悲と善意を感じさせず、言葉が相手を善くすることができず、逆に相手の悪い側面を刺激することがあります。魔がこのような心を操り、悪い生命を利用する機会を与えます。これは非常に残念です。なぜなら、これによって相手を救うことができず、むしろ衆生に対して否定的なイメージを持たせ、大法の評判を傷つけ、衆生の救いに困難をもたらすからです。
『各地での説法三』「大ニューヨーク地区法会での説法」に、このような問答があります。「弟子:慈悲をもって衆生に対処することと大法の尊厳を守ることのバランスを取るのは非常に難しいと思っています。ご教示願います。
師:大法の尊厳を守りたいという考えは正しいのですが、どのように守るのでしょうか? 相手の口を塞いでしまうのでしょうか? 相手と議論するのでしょうか? 皆さんに教えますが、他でもなく慈悲をもって衆生に対処し、人々に真相を伝え、大法の尊厳を守ることです。これであなたは大法の尊厳を守ることができるようになります。(熱烈な拍手)
大法の尊厳は常人の手段で守るものではありません。
個人的な理解としては、修煉者が師父の要求される口調と善心に達するためには、傲慢な心を捨て、謙虚さと他人への尊敬と礼儀を修めることが最低限の要求です。
師父は、「佛光が普く照らせば、礼義が圓明になる」(『轉法輪』)と述べておられます。自分たちがしっかりと修煉すれば、周りの環境も善化されます。私はいつも自分に師父の要求を満たしているかと頻繁に問いかけています。このような現象が現れている時、私たち大法弟子一人ひとりが心を静めてよく内に目を向けて探し、まず自分自身の人心を捨てなければなりたせん。人心を捨てなければ、私たちはより多くの衆生を救うことはできません。
これが私の現在の理解ですが、不足や誤りがあれば指摘していただければ幸いです。