文/海外の大法弟子
【明慧日本2024年5月8日】家族は、自分と最も多く接する人で、自分の良いところと悪いところが一番分かる人です。修煉の視点からみると、師父は家族の口を借りて修煉者に啓示されることがあります。そのため、どの意味からしても家族の言うことを無視してはなりません。
私に注意してくれる(実は師父からの啓示)、良い手本を見せてくれる、鏡のように私の悪いところを映し出すなど、私の修煉において家族は多くの助けになってくれています。
注意し、良い手本を見せてくれる
夫は修煉していませんが、夫から指摘された欠点はどれもとても「的中」しています。その場で納得できずに喧嘩してしまうことも、数年経ってからその時の指摘は正しかったと気づくことも多くあります。どうしていつも「的中」するのでしょうか、私のことをよく知っており、師父は彼の口を使って私に啓示される要素もあると思います。
修煉者に自分の問題点を気づかせるだけでなく、家族には「お手本」という役割もあります。どんな人にも長所と短所があり、修煉者にも直すべき人心と観念があり、常人にも修煉者が学ぶべき良い面があります。夫が多くの正しい考え方と行動の手本を見せてくれていることに私は徐々に気づきました。いずれもとても小さいことですが、小さいことから少しずつ自分の不足を変えるのは、最も着実に進歩できるパターンではないかと思います。
例えば以前、家事をすると、あまり時間をかけたくないので手抜きが多かったのです。夫に注意されると、「速くやると心を込めていないと言われ、ゆっくり丁寧にやると能率が悪い、やり方が悪いと言われ、どうやってもあなたの気に食わない」と思って素直に自分の不足を認めることができませんでしたが後日、夫が言ったのは正しかったと分かりました。私は速く家事をした時は細部を省略することが多くて、洗った野菜にまだ土がついていることもあり、家事の質が悪いのです。真面目にする時は、家事の質は申し分ないのですが、遅くて時間がかかりすぎます。実は私には、能率よく賢く家事をするために頭を使って考える意識が薄いのです。一方、夫の家事のやり方を観察してみると、私と比べて実に質が高く効率的で、これは私が学ぶべき点です。私の観察力と学習力が弱くて、考えて経験をまとめる能力も足りないと、かつて夫が言ったことがありますが、それはまさに私の問題点であり、改善を続けた結果、今では昔の私よりずっと良くなりました。
家事に対する心構えは修煉にもつながる
家事が上手か下手かは修煉に影響ないので、家事をする能力を上げても上げなくてもいいと思う修煉者がいるかもしれませんが、生活の中の小さいことはすべて修煉につながっています。背後には同じ考え方、扱い方があるからです。瑣末な家事をより真面目にするようになってから、自分は以前より学法する時に集中できるようになりました。パソコンを使う時もどんどん効率的な操作を覚えました。以前は効率を上げる意識も意欲もなかったので、賢くない使い方を長年してきました。
「洗った野菜にまだ土がついている」のは実は小さいことではありません。その背後にある「真面目にやらない」習慣を除去しなければ、修煉のあらゆる面にも反映します。実は、「小さいことを真面目に扱わない」ことの裏には、共産党文化である「大きなことをし功績を上げたがる」、「高望みする」などの心理もあり、それらも修煉の向上を妨げます。
夫の怒りは私の不足を的中する
夫は怒りっぽい人で、夫に良くしているのに、夫に尊重されるどころか、時々怒鳴りつけられたりもして、長年、私は夫にずっと不満を持っていました。「夫の態度が良いかどうか」という点に注意を絞って狭く考えていてはダメで、もっと広く深く物事を見なければならないと最近やっと気づきました。
例えば先日、私がある考えを主張したために、夫は怒って声を荒げて怒鳴りつけてきたことがあります。以前ならばきっと、「私は何も悪いことをしておらず、ただ意見が合わなかっただけなのに、どうしてあんな失礼なことができるのか、私は自分の考えを持ってはいけないのか」と思って忍耐できず、激しい口論になり数日立ち直れませんでした。しかしその日、不平不満もあったのですが、幸いにも少し喧嘩してすぐに収まりました。冷静になってから自分の問題点に気づきました。
私の問題点とは「難しいことに対してあらかじめ心配して焦ってしまい、ネガティブな考え方の持ち主」なのです。数十年間そのように生きてきたから、夫に激しい方法で注意されないと、自分は意識しません。それがその日に夫が暴言を吐いた原因です。生活の中の「難題」に対して私はいつもネガティブで不安な気持ちになり、そのことばかりを心配してしまうのです。「物事の善し悪しは人間の一念によるものであり、その一念の違いによって異なる結果がもたらされることがある」(『轉法輪』)と、師父は説かれました。物事に対する正しい考え方とは、ネガティブな方向ではなく良い方向に向かって考えることだと理解しました。 私のマイナス思考は、実は修煉の観点から見ると大きな問題なのです。
その一件以来、面倒だ、難しいと思うことに遭遇した時は、「やばい、やばい、うまくいかない」ではなく、「大丈夫、大丈夫」と発想を転換するようにしてみました。もちろん小さなことから始めたのです。その結果、これまで心配していたことが一つ一つ最終的に無事に解決できました。それで、大いに自信がつきました。自分の観念が変わったのです。「緊張と不安」に代わって「冷静と落ち着き」が生まれました。もちろん、正しい思考パターンを実践の中で固めていく必要はまだあります。
あの日怒鳴ってくれた夫にとても感謝しています。一度怒鳴られただけで考え方が変わるとしたら、それは大変「コストパフォーマンスが高い」ことで、これ以上望むべくもありません。
夫は私の短所に対してよくカリカリする一方、言われるのが嫌いです。つまり、私の不足を指摘してくるのは自由ですが、私は夫の不足に口を挟むことができません。以前はこのようなことに対して私はよく不満に思っていましたが、今は納得しました。夫が指摘を聞きたがらないのは、それは彼の選択であり、私は夫に強要できません。一方、夫からの指摘を素直に聞いて受け入れれば、私自身が成長します。これは私の収穫です。
また、夫の身に存在する問題点は、私自身の問題点を照らし出す鏡でもあります。夫は人に指摘されるのが嫌で、私も同じです。いろいろあって、今は夫からの指摘に対して、「喜んで」聞くようになりました。あらゆる面で夫は私の修煉を助けてくれています。
シンプルで実行しやすい
師父は「大道は至簡至易である」(『大圓満法』)とおっしゃいました。頑固な観念を変えるには何から始めればいいのか、難しくみえますが、実はそんなに難しいことではなく、複雑なことでもなく、ただ、家族が注意してくれた小さいことから変えればいいと思います。やり方が分からなければ、家族のやり方を見習ったらいいので、だんだんと覚えられます。このように簡単なことです。
家族のほか、友人、同僚、同修も皆、さまざまな面でさまざまな形で私を助けてくれています。 また、師父は私たちの修煉を成功させるために、シンプルで実行しやすい方法を按排しておられます。ただ、人間は簡単に手に入るものを意識せず重視せず、また簡単に失うことが多いのです。
最近、ごく小さなことから観念を変え、少しずつ思考や行動パターンを正して、効果が見えてきました。シンプルで簡単だと感じて、自分は日に日に変わっていると実感しました。