文/中国の大法弟子
【明慧日本2024年7月8日】私は一人で修煉している高齢の大法弟子です。意気地なしの弟子である私を見放さずにいてくださった師父に感謝いたします。また、同修たちの交流文のおかげで、この26年間つまずきながらも歩んでこられたことに感謝します。
私は毎日、三つのことを行っていますが、向上はとても遅く、いつも同じ次元内で徘徊している感じです。
最近、師父の経文『目覚めよ』を何度も繰り返し学んでいます。 師父の法と比較しますと、法を正すことが最後の進展に至り、自分の修煉状態を本当に真剣に深く反省すべきであり、「もはや任務をこなすように、ただ進めていくだけではいけない」と思いました。
師父はおっしゃいました。「また、古い学習者を含む一部の学習者は普段、大法のことを行い、学法も怠っていませんが、肝心な時にやはり乗り越えることができません」 (『目覚めよ』)
その理由は何でしょうか? 私は20数年修煉してきましたが、この問題に関心を持ったことがなく、はっきりした理解もなく、どこに問題があるのかも分かりませんでした。迷っていた時、偶然、同修の交流記事を読んで大いに啓発されました。「肝心な時に乗り越えられない」という根本的な原因は、「師を信じて法を信じることが足りない!」と分かりました。
私は20数年修煉して、やっと「師を信じて法を信じる」ということに新たな理解を得ることができました。
法を学ぶことは、毎日しなければならないことです。 しかし、法を学ぶ時、法をどれだけ信じていたでしょうか? 物事に遭遇した時、自分が信じた法に則って行動し、実行できれば法を得るのです。法の内容だけを知っていても、物事に遭遇した時に法に従って行うことができなければ、毎日法を学んでいても、法を信じていないということであり、つまり法を得ていないことに等しいのです。法の基準に従って自分を実践していない私は、時間を無駄にしているのではないでしょうか。 私は師父の慈悲なる済度に申し訳なく思いました。 これからの修煉において、私は法の基準に従って修めるように努力しようと思いました。
私が子供のころ、家は貧しくて食べるものがありませんでした。着る服もお金もなかったので、誰かから何かをもらったり、何かを拾った時には心から喜びました。そのため、その観念を変えるのはとても難しく、20年以上修煉して、やっとそれ以外の利己心は何とか抑えることができるようになったのですが、何かを拾ったり、他人から何かを恵んでもらったりすると、自分を制御することができなくなり、捨てるのは勿体ないと考えてしまうのです。家で数羽の鶏を飼っているので、隣近所にあるレストランの廃棄食品をもらって、鶏の餌に回したりしました。また、ゴミを出しに行って、ゴミ箱に捨てられている野菜や、ペットボトルも拾って帰ったりもしていました。
20年以上修めていますが、何故こんな小さな利益心を放下できないのでしょうか?
私はそれを放下することを決意して、形成された観念や習慣は、自分の心の底から取り除く必要があります。いつも失敗ばかりではいけません。今、私はそれを暴いて「できるだけ早く修めて取り除きたい!」と思いました。
しかし、この交流文章を書いている時、同修に見下されるのを恐れ、長年修煉したにも関わらず「わずかな利益すら手放さなかった」と言われるのを恐れました。それだけでなく、面子や名声を求める心があることにも気づきました。その心をさらけ出す勇気こそが、執着心を修める過程であり、心の底から本当にそれを取り除こうとすることが、「修煉者の決意」であることがわかりました。
私は先ず、「他人のために思う」ということを実践することにしました。
ここ数年、私は人々を救うために毎日、面と向かって真実を伝えに出かけています。 真相を伝えることに突破口はなく、ある人に「法輪大法は素晴らしい」と心の中で念じるように勧めたところ、その人はすぐに携帯電話を手にして、 「今度言ったら警察を呼ぶぞ」と叱責され、恐れてしまって何も言わずに帰りました。
帰宅後、内に向けて探すことをせずに、「自分に恐れる心がある」と認識しただけでした。この恐れる心を取り除くために正念を発しました。
今年のお正月過ぎの15日の朝、「今日は祭日だ、息子もいるし、お昼のおかずを準備しよう、しかし休日だからと言って、人を救いにいかない訳にはいかない!」と思い、原付自転車に乗って市場に出かけました。しかし、市場で真相を伝える対象が見つからず、市場を出たところで一人の中年男性が道の反対側に立っていたので、彼に声をかけました。「出会えることはご縁があることです、一つ良いことをお伝えしましょう、真心を込めて『真善忍は素晴らしい、法輪大法は素晴らしい』を念じれば、疫病から逃れることができます」と伝えました。 彼はすぐに「私が何をする人かわかるか?」と言いました。 私は「何をするにしても、自分の命を守らなければなりません」と答えました。 「どこから来たんだ?」と彼はまた質問しました。「私はこの村から来ました。私はこの村人です」と答えました。 その瞬間、男性が私の写真を撮ろうと携帯電話を向けているのが見えました。 この時、私の私利私欲の心が瞬時に出てきて「写真なんかは撮れませんよ 」と呟きながら、すぐにその場を立ち去りました。
歩きながら師父に、「彼が大法と大法弟子たちに対して罪を犯さないように見守って下さい」「彼の背後にある邪悪な要素を解体させ、彼の携帯電話で私の写真を撮ることができないように、私の正念を強めてください」とお願いしました。師父のご加持の下で、私は安全にその場から離れることができました。この数年来、私はずっと真相を伝えてきましたが、今回ほど怯えたことはありませんでした。
帰宅後、私は家族に伝える勇気がなく、ただ正念を発し続けました。 午後から夕方にかけて、私は法を学び、自分自身に向けて探していた時、自問しました。師父はいつも、修煉で起こることはすべて良いことだと強調されていますが、真相を伝えることで遭遇したことはすべて良いことだと受け止めたのでしょうか? 答えは「いいえ」です。 なぜなら、真実に耳を貸さない人、私を通報しようとする人、警察に出くわしたことを悪いこととみなしたからです。つまり、自分の考え方を変えなかったので、恐怖心が生まれ、次第にその恐怖心を強めたのです。もしこれを良いこととして扱っていたならば、それは自分を向上させることになります。平然として正々堂々と正念が満ち溢れ、真実を伝えられたならば、真に他人のためにと思っていると実感するでしょう。
修煉は厳粛なものであり、任務をこなすようなことを修煉だと思ってはなりません。 実際、真相を伝える過程で、時には自分の状態が正しくないと感じることもありました。真相を話せば話すほど言葉が詰まり、知恵がなくなり、正念が足りなくなり、師父も何度も家庭用浄水器、蛇口や漬物の壺の水漏れを介して私を悟らせてくださいました。私も自分の修煉に漏れがあると感じていましたが、問題を見つけることができませんでした。 師父のご加護がないことを想像してみると、それがどれほど危険で恐ろしいことでしょうか。自分は道を外れているのに気づいてはいませんでした。
自分の利己心を深く掘り下げて見ました。自分を放下できず、恐れる心、衆生を一番に優先してないことに気づきました。
今、私は旧勢力がどのように人々を利用して妨害しようとも、私は衆生を救うという一念をしっかりと持ち続けようと思いました。 真に師と法を心から信じて、さらに修煉者の立場から物事を見ますと、すべては良いことです。自分を向上させ、より多くの衆生を救って、初めて自分の修煉の道を正しく歩むことができるのです。