文/中国の大法弟子
【明慧日本2024年8月18日】6月6日、師父は『目覚めなさい』という新しい経文を発表されました。 私はこの経文をインターネットで二度読み、師父が「優しさ」と「愛」について言及しておられることに感動しました。 印刷されたものを何度か読んだ後、心が強く打たれました。
師父が私に啓示しておられると感じ、私は修煉者として、自分がすべての人に慈悲心をもっているだろうか? 私は誰に対しても愛を持っているだろうか? 実に恥ずかしい限りです。「目覚めなさい」を写した後、師父は私に警告を伝えられている気がしました! 30年近く修煉してきたのに、どうしてこんな状態になってしまったのでしょう。 私はもう自分を正視する勇気がありません。
数日前、同修に新しい経文の『目覚めなさい』を届けた時、約束の時間にその同修の家につきましたが、思いがけず玄関先で、同修の家族に止められ、同修に会わせてもらえませんでした。 私はいろいろおしゃべりをしましたが、無駄でした。 そのことがとても腹立たしかったので、引き返すしかなく、別の同修に経文を渡し、その愚痴を告げました。
帰り道、この出来事を思い出しながら、やはり腹が立ちました。 考えてみると、自分は何かが間違っていることに気がつきました。 「この怒りは大法弟子の状態なのだろうか? 私は誰に対して怒っているのだろうか? 同修の家族か? 同修の家族は常人なので、もし私が常人に腹を立てているなら、私も常人ではないか? そうだ! 私はもう怒ることはしない」 と私は心を解き放ち、怒らない事にしました。
先の出来事は些細なことに過ぎないのだと気持ちを切り替え、心が軽やかになり、帰宅しました。 しかし、今でも時々そのことを思い出し「同修の家族に腹を立てるなんて、とんでもないことだ! これは大法弟子の振る舞いではない! 私の修煉状態に問題があるのではないか?」と反省しました。
私は師父の新しい経文に照らして、自分自身を真剣に見直し始めました。 師父は私たちに「誰に対しても慈悲深く、愛の心を持ち」(『目覚めなさい』)と望まれています。 私はできたのだろうか。その答えはノーです。
問題はすべて自分にあると理解しました。 師父の「誰に対しても慈悲深く、愛の心を持ち」というのは、他人のためにという点に立脚しているのに対して、私は「私」のためにという点に立脚し、すべてにおいて私を優先していました。 例えば「同修の家族は、私が同修に会うことを拒否した。私に無駄足を運ばせ、経文を渡すと約束しながらそれを果たせず、信頼を破り、もう一度足を運ばざるを得ない」など、あらゆる思いが「私」という文字から離れず、頭の中は「私」でいっぱいでした。他でもなく、 この 「私 」に触れて、心のバランスを崩し、私は怒っているのです。
そしてこの怒りは実に小さなことではなく、嫉妬心、怨恨心、闘争心、他人を軽蔑する心、トラブルを恐れる心、苦労を恐れる心など、多くの人心を露呈して、怒りとして現れたものです。 ひとつの 「自我 」が、これだけ多くの人心をさらけ出したのですから、不安になるのです。師父が 修めて取り除くべき人心に気づかず、深く探さなかった私を悟らせておられたのでした。突如、 私は悟りました。師父、 ありがとうございます! 師父にまたご心配をおかけしてしまいました!
「自我」は、この出来事の中で 私が気づかなければならない人心であり、私が修めて取り除かなければならない人心でもあることに気付きました! 師父は私たちに「誰に対しても慈悲深く、愛の心を持ち」と望まれていますが、私は「誰に対しても」という部分に対して完全ではありません。私の思いやりと愛は条件付きのものであり、その条件の基準は「自我」です。 「私」に触れなければ、優しさと愛を示すことができますが、「自我」に触れれば、師父や大法のことを考えられなくなるのです。 私の 「自我」は壁のように、これまで修めて培ってきた慈悲と愛を遮っていました。その瞬間、完全に常人に戻った私に、魔性が現れてくるのです。 私ははっと目が覚めました! 心の底から、この出来事で私を目覚めさせ、気づかせてくださった慈悲深く偉大な師父に改めて感謝申し上げます。
私が普段、指摘されるのを嫌がり、指摘されると言い訳が多く、言い訳を我慢できても不快に感じてしまい、世間体を気にし、強情であることなどは、すべて 「自我 」が関係していることに気づきました。 「自我」とは利己的なもので、旧宇宙の人々の性質です。 私たちは大法弟子であり、師父が私たちを成就してくださるのは神であり、人間の観念を根本的に変え、人間の殻を破り、修めて利己心を取り除いて、人間から一歩踏み出すことによってのみ、私たちは神に向かって進むことができるのです。 同時に、謙虚さを身につけて、初めて自分よりも他者を優先する正覚にまで修め成し遂げることが出来るのです。
私が『目覚なさい』という経文を発表する時期にこのような出来事に遭遇したのは、師父が私に、このような根深い人心をごらんになり、早くそれを修めて取り除くように按排してくださったのだと思います。 師父の教えを忘れず、残されたわずかな時間に、しっかり自身を修煉したいと思います。
個人的な悟りですので、不適切なところがあれば慈悲なる叱正をお願いします。