【明慧日本2024年9月10日】ある同修と話している時、心の中で彼女の話は聞きたくないと思ってしまいました。その後、ある人から彼女の家族状況を聞いて、初めて彼女の考え方にはある事が関係しているのだと理解できました。また、私自身の以前の経験を思い出し、いくつかの法理を理解し、大法弟子にとって純粋な考えとは何かを悟りました。(私の次元での認識で)
迫害当初、私は労働教養所に不法収容されている間に強制離婚させられました。労働教養所から釈放された時、私には家がなく、親戚の家に滞在しなければなりませんでした。親戚の主人は政府の役人でした。当時母親の同修もそこに住んでおり、親戚の子供の世話を手伝っていました。
ある日、私はいつものように親戚が仕事に出かけてから、すぐ『轉法輪』を取り出して、リビングで読み始めました。すると親戚が用事があって急に帰ってきました。ドアを開けると私が手にしている『轉法輪』を見て「どうしてまだこれを読んでいるの」と私を問い詰めました。私は「私の人生はこのためにあるのです」と答えました。私が話し終わるとすぐに親戚は「我が家は自由だから、好きなようにすればいいです」と笑って言いました。
今思えば、当時私は人の家に住んで、相手にプレッシャーをかけない、迷惑をかけない等々、どれを考えても、堂々と修煉する環境が無く、彼女を反対側に追いやっていたかもしれません。
2001年、労働教養所で、そこの隊長が手配していた犯人が、彼女の言われる通りに立つよう私に求めました。師父は「釈迦牟尼の弟子が托鉢していた時、僧侶に一口の食物を与えることが功徳無量であると釈迦牟尼は言ったことがあります」(『米国東部法会での説法』)と説かれたことを思い出しました。私は「私を立たせるのは適切ですか」と聞きました。私がそういうとその犯人はすぐにくるりと背を向けて立ち去りました。
今、振り返ってみると、当時の自分の考えはとても純粋で、話をしている時や話の前後も他の考えや心配、懸念等が一切なく、話には人のものがなく、本質のままで、口ではある事を言っても、心では別のことを考えているわけでもなく、それは本当に良い人は救われ、悪い人を遠ざけるためです。
師父は『轉法輪』で、トラブルに遭遇した時、他人と争わないようにという法理を説かれました。最近この法を学んで、ふと悟ったのですが、友人や親戚との間のトラブルに遭遇した時でも、迫害を受けても、まず自分自身を『轉法輪』と照らして、個人の修煉がしっかりできているか、問題に遭遇した時に修煉の要求に達しているか、ずっと七情六欲にしがみついていないかを見るのです。一方、表面的な忍という文字で対処すれば、心の中に迫害を受け入れる理念が生まれ、邪悪につけ入られ、厄介なことを長引かせることになりかねないのです。個人的な理解では、私たちの個人修煉がしっかりできていれば、同修間のトラブルは少なくなり、強い正念で、背後の邪悪を解体させ、純粋な善念で私たちは悪い人を救うことができるのです。