文/米国テキサス州の大法弟子
【明慧日本2024年10月3日】私は修煉を始めて2年目から大法メディアのプロジェクトに参加し、それから長い間活動してきました。これは師父の慈悲深い按排のおかげで、法を正す進展に追いつき、自分を修めながら、師父が衆生を救い済度されることをお手伝いし、自分の誓約を果たすことができるということです。
昨年、師父は、私が「心の中に根強く残っている不満と潜在的な観念」に執着していることを指摘してくださいました。この執着は、私の修煉の状態において、表面的な観念の問題ではなくもっと深い心の問題が存在しているのだ、と信じました。
師父の経文「目覚めなさい」が発表された後、私は自分の執着が十分に、そして迅速に取り除かれていないことに気づきました。私は全ての衆生を救い済度したいと考えていますが、私の思考や行動には、他人に対する偏見や先入観が隠れていました。「これらのより深い執着をなくすには時間がかかる」と自分に言い訳をしていましたが、師父の経文「目覚めなさい」は、今すぐに変わらなければならないと私たちに啓示を与えてくださっています。
師父は経文の中で常に慈悲について私たちに啓示を与えられました。師父は「慈悲は常人社会では善意と愛の心として体現されています。これも大法弟子の内面から滲み出た生命の状態です」(『目覚めなさい』)と説かれました。
無私とは、他人のために生きるということです。私たちの思考は、自分より優れていると考える少数のグループや人々だけでなく、全ての人々のことを考慮できるレベルに達していなければなりません。最も基本的なレベルでは、それは毎日、私たちの思考と行動の中で、全ての人に愛と善意を表現することです。もし私が心の中でそうしないのなら、私の行動がどうであれ(例えばメディアで働いていようとも)、たとえ私が直接記事を書かなかったとしても、衆生の救い済度に影響を与えることになります。
私は情に対して隠された執着を持っています。私の家族の多くは保守的な観念を持っており、同じような観念を持った人と接する機会が多いので、私は家族と同じような観念を持った人たちを救済するべきだと考えています。それは、家族をよく知っているからです。また、家族の中に自由主義的な考え方の修煉者がいるので、家族なら保守的な考え方の外部の人々にアプローチするのに適している、とも考えています。この考え方は一見合理的ですが、実は隠れた執着心を隠しています。それは、全ての衆生に対して責任を果たしていないという一つの執着です。これは、大法弟子として必ず成し遂げなければならないことなのに、できていないのです。これは「他の考え方を持つ人々に対して平等な心を持って接することができない」という私の執着です。
佛は自分自身を深く見つめ直し、師父が『目覚めなさい』の中で説かれたような慈悲深い心をなぜ修め出すことができないのか、内に向けて探しました。そして、私は幼い頃から、悪いことをした人は罰せられるべきだという、より根深い考えを持っていたことに気づきました。
私は以前、大法の深遠な内涵を十分に理解していませんでした。師父が宇宙が壊滅の危機にある中で「善」と「悪」の両方を同時に救おうとされていることを、はっきりと理解していませんでした。ある生命が今生で演じている役割が、ある人々にとっては悪に見えるかもしれませんが、その生命の使命を考えると、本質的には悪ではない可能性もあるのです。
師父の法から、これは旧勢力の策略だと理解しました。旧勢力は「悪役」を演じている衆生に、大法に対して悪いことをさせようとしているのです。ですから私は、異なった次元から衆生の救い済度を考えなければなりません。全ての衆生は、大法のためにこの世に生まれ、師父の弟子であり家族なのです。これは、より高いレベルの慈悲心なのです。
法を正し衆生の救い済度を妨害するものは真の悪であり、大法弟子が何らかの理由で妨害を引き起こした場合、それは罪となります。すべての衆生は大法のためにこの世に生まれ、救い済度を待っています。
「すべての衆生は大法のためにこの世に生まれ、救い済度を待っている」ことは理解しているつもりですが、なぜ自分の行動と考え方にギャップがあるのでしょうか。ちょうどその頃『轉法輪』の第六講で「煉功して魔を招く」の部分で法の学習が滞っていました。それは、師父が説かれた「自分の心より魔が生じること」について、深く理解していなかったからだと気づきました。
修煉を始めてわずか2カ月で天目が開き、多くのものを見ることができました。その後、数カ月の修煉の後、連続2日間の座禅中に、魔が私の修煉を妨害しようとしているのを見ました。私は、魔が私たちの修煉を邪魔しようとしても、何があっても堅持しなければいけないという基本的な悟りを得ました。また、師父の護法神である西方の神々、中国の武神、そして金龍が、危機的な状況で私を助けてくださるのを見ました。二度、関を乗り越えた時、師父の法身が現れ、修煉を続けるよう励まし、師父について家に戻るよう励ましてくださいました。この経験は、私の修煉に対する大きな励みとなり、私はより一層精進しなければならないと感じました。
つまり、修煉中に外から魔が邪魔をしてくることを身をもって知りました。ある時期から、天目で多くのものが見えることがなくなり、代わりに意味不明な音が聞こえるようになりました。私はこれらを魔の妨害だと考え、気にせずに過ごしました。
以下の師父の法を暗唱している時、私は師父が説かれた「信息」という言葉の意味を、もしかしたら理解できていないのではないか、ということに気づきました。
師父は「特に、煉功して一定の次元で天目が開いた人に、このことが起きやすいのです。それから、自分の意識がいつも他からの信息に撹乱を受けやすく、他からの信息をそのまま信じてしまう人にも、このことが起きます。このように、天目が開いた人は、さまざまなところからの信息に撹乱されやすいのです」(『轉法輪』)と説かれました。
私は以前、自分の多くの考えや感情が、私を誤った悟りへと導こうとする『信息』に過ぎず、実はそれを自分では気づいていない、ということを理解していませんでした。私は、自分の全ての考えを法と照らし合わせ、法に符号しているかどうかを見ていませんでした。
宇宙からの信息を受け取ろうとする時、私は自我に執着する観念、意識、そして信息を混入させてしまい、修煉中に自己の心を乱す魔のような妨害や試練を作り出していました。いかにも良いと思えるような考えが、どれほどの回数、突然頭に浮かんだでしょうか。しかし、私はその考えに、より深い原因があるのかどうかを考えたことがあったでしょうか? その考えを法で測り、照らし合わせてみたでしょうか? これは深く考えさせられることです。
ある古い同修が私に「修煉を始めたばかりの時、私たちは誰もが魔性の状態にあるのです。この魔性を抑え込むことが大切です。しかし、自分の魔性に気づくのはとても難しいことです。なぜなら、人はある期間、自分がしていることが間違っていることに気づけないことがあるからです」という経験を聞かせてくれました。
私も「私たち一人一人が修煉の道において、常に心より生じる魔の妨害に遭う」ということを認識しています。そのような時、大切なのは、法を師とし、自分自身の魔性と観念に振り回されないことです。法を選ぶのか、魔を選ぶのか、どちらを選ぶかが非常に重要です!
私は自分の思考をより深く掘り下げる中で、思想業や、自分が形成した概念、そしてどこからともなく意識の中に現れる信息から離れることができることに気づきました。これらの無意識や潜在意識下の信息は、私の感情から生まれたものかもしれないし、他人との交流の中で生まれたものかもしれません。あるいは、単なる突発的な考えである可能性もあります。
自分の思考をより深く掘り下げる中で、私は多くの執着心を持っていることに気づきました。自分の思考をより深く掘り下げることを続けていくうちに、正念の状態がますます深まり、学法の効果も高まっていくのを実感しました。これは、無意識に繰り返してしまう自分の思考習慣に気づいたためだと考えています。主意識が強まり、よりはっきりとした正念が生まれ、高次元のエネルギーと思考の明晰さが伴うようになりました。とはいえ、すべての思考に意識を向けることができているわけではありませんが、少なくともいつ自分が努力を怠っているのかは分かるようになりました。
感傷を放下し自我を実証しようとする根源を見つけ出す
私は「感傷への執着を断ち切ることは、自分を実証することと顕示心に深く関わっている」ことに気づきました。自分を実証することと顕示心が本当の自分ではないと理解しているつもりでも、頻繁に妨害されてしまいます。時には、そのために本当に落胆しました。
ある同修に対して自分はなぜ自分を実証することや顕示心を抱いているのか、自分自身に問いかけることがあります。そして、同修たちとの交流の中で、私は同修に何を期待しているのか自問自答します。多くの場合、誰かと上手くいかない時や、誰かに対して何か思うことがある時、それは相手が私に対してどのように接してきたか、あるいは相手から受けた印象が原因であることに気づきました。その印象から、相手に対する固定観念ができてしまいます。それが間違っていることは分かっているのですが、まるで条件反射のように、思考や観念が自動的に形成されてしまいます。心の中ではそれを否定しようとするのですが、多くの場合、その観念はなかなか消え去らず、同修との交流の中で顕著に現れます。
私は意識的にその印象や観念をすぐに消し去ろうとしますが、それでもそれらは何度も頭の中に浮かび上がってきます。そこで「同修との交流で、私は彼らから何を望んでいるのか?」と自問自答します。その答えは「同修に自分の存在を認めさせ、肯定的な目で見てほしい」ということでした。より深く掘り下げてみると、これは自己に執着する心と、虚偽の「自我」が働きかけている結果であり「自我」を実証しようとしているのです。この虚偽の「自我」は、私がそれを消し去ろうとしていることを知っているため、「自我を実証しようとする」欲求にしがみついて離しません。これが、自分自身の存在を認められたいという根本的な理由なのです。「自我」に伴って現れるのは、顕示心であり、それに続くのは闘争心や嫉妬心などです。しかし、私にとっての根源は、自我を実証しようとする執着です。
一度この根源を見つけると、私は行動に移しました。例えば、私が否定的な印象を抱いている人に再び出会った時、私は自分に「私はこの人から何も求めない。私たちはただ共に修煉している同修なのだから、この人に対してどんな考えを持つべきではない」と言い聞かせました。そして、心の奥底から本当にそう思えたら、その人と接する時間はとても穏やかになり、私はもはや否定的な感情を抱かなくなります。
たとえ相手から嫌われていると感じたとしても、この行動を取ることで、私はトラブルの中で自分の責任を認めることができ、相手のせいばかりにすることを避けられます。この執着心を最近になって気づき、修めて取り除き始めたところです。ですから、まだまだ行わなければならないことがたくさんあると感じています。過去1年間、私は自分の執着心を探し続けてきました。時には、執着心がすぐに消えることもありましたが、多くの場合、ほんの少しの進歩でもそれが大きな過程であることに気づきました。
前回の交流では、煉功時間を延ばしてより精進して心性を修めると言いました。心性の修煉については、ある程度努力したと言えます。しかし、煉功時間を延ばすという目標については、まだ十分に達成できていません。少しは実践しましたが、期待していたように安定して続けることができませんでした。これは、私の怠惰な心や、安逸と快適さに執着していることが原因だと考えています。それでも、私はこの修煉の目標を達成するために努力を続けようと思います。なぜなら、これは自分自身を向上させ、執着心を取り除く過程だからです。
私たちは何度も転びながらも立ち上がり、そうすることで悟りを得ることができます。
皆さん、私の話を聞いていただき、ありがとうございました。もし、法に則っていないところがあれば、慈悲深いご指摘をお願いします。
師父に合掌いたします。
(2024年アメリカ南部法輪大法修煉体験交流会の発表文)