文/日本の大法弟子
【明慧日本2024年10月5日】最近、私の周りの多くの同修は、さまざまな病業を消去する状態の中におり、私自身も病業を滅しなければならない状況でした。その過程で、私は常人の観念を変え続けていました。今日、私は同修と共通するいくつかの状況について、これらの問題についての自分の個人的な認識を話したいと思います。
病業を消去し始めたばかりのとき、私たち修煉者は、正念を比較的強く持っており、「これは業の消去であって、病気ではない」とわかっています。しかし、その業力の消去が長く続いたり、再発したり、あるいは悪化したりすると、私たちは往々にして心の中で「自分は何か間違ったことをしたのではないか? 一生懸命修めており、病気だと思っていないのに、良くならないのはなぜだろうか?」と思い、悩むのです。
師父は『轉法輪』六講で「例を挙げましょう。長春で講習会をした時に、根基が非常に良い人がいて、素晴らしい素材だ、とわたしも気に入っていました。そこで、彼に与える難をちょっと大きくし、速く借りを返済させ、功を開かせ、私はこのようにするつもりでした。しかしある日、彼は脳血栓になったかのように、ばったり倒れてしまいました。身体が動けなくなり、手足も自由が効かなくなったように感じたので、病院に運ばれました。ところが間もなくベッドから降りられるようになりました」と説かれました。
以前、この部分の法を学んだ時、私は、「業力を滅することを良いことだと思わなかったこの学習者の悟りが良くないのだ」と思ったのですが、師父がその前に「わたしも気に入っていました。そこで、彼に与える難をちょっと大きくし、速く借りを返済させ、功を開かせ、私はこのようにするつもりでした」と、おっしゃったことをおろそかにしていました。
今回、この部分を読んで、私ははっと「難を大きくするというのは、とてもいいことではありませんか! 業を早く返済させ、功を開かせるというのはよいことだ」と気がつきました。しかし、業の消去が修煉者にとって良いことであることを根本的に認識しないので、表面的に悪化したように見えたり、長引いていると感じ、心が不安定になるのです。業の消去が本当に良いことだと考えるなら、修煉者はその良い事がもっと多く、もっと長く続くことを恐れることはないでしょう。
また、人間の観念によって心が不安定になることもよくあります。坐禅のとき、脚の痛みも業の解消であり、時には激痛になっても心が不安定になることはまったくありませんが、では、なぜ病業のときに症状が重くなり、長く続くと、心が不安定になるのでしょうか? それは、足が痛んでも死ぬことはないとわかっていて、「病気」なら、命にかかわるかもしれないという人間の観念があるからです。しかし、この考え方は常人のものであり、間違っているのです。修煉者はそう考えてはいけません
もう一つの共通する点は、我々は病業のとき、明らかにその原因を悟ったと感じますが、その病業の症状が軽減しているとはいえ、一挙にすべてなくなるわけではありません。その苦痛は確実に感じており、時間が経つにつれて、少し絶望的になってしまうことがあります。
今回、私の業力の消去の場合、苦痛を感じるたびに主意識が強くないことがわかりました。刑務所で警官が迫害を加えるために、近づいてくるのを見た時、大法弟子はその背後にある悪いものを滅ぼそうとする強い正念を持つことができます。しかし、肉体的な苦痛が来る時、その一部が旧勢力が虫や細菌などの厄介なものを利用して大法弟子を迫害するのですが、その時、肉眼で見ることができないので、私たちの主意識はその背後にある悪いものを退治するほど正念を強く持っていないことが多いのです。時々、苦痛が我慢できない時、私たちは常人の手段でそれを和らげるため、横になったり、手で揉んだり、お湯を飲んだりして、常人の観念が出てくるのです。
業力の消去は苦を嘗めることですが、旧勢力は大法弟子たちを試すという口実で、私たちの正念を揺るがそうと、多くの妨害や仮相を出してきます。これらのことはいずれも師父が認めておられるものではなく、私たちも認めているものでもありません。したがって、たとえ肉眼で見ることができない旧勢力の手口であっても、私たちは同様に、強い正念をもって妨害を取り除き、旧勢力を認めてはなりません。
そして最も重要なポイントは、師父と大法を堅く信じることです。師父は繰り返し「修煉者は病気ではない」とおっしゃっていますが、私たちはどこまで信じているでしょうか? 「太陽が東から昇る」ように、信じていますか? もし誰かが私たちのところに来て、「空気中に酸素がない!」と言ったとしたら、私たちは皆、その人のことを笑い、馬鹿なことを言っていると思うだけで、誰かが 「あなたは病気かもしれない!」と言ったら、「修煉者が病気になるわけがない」と、私たちは同じく笑うべきです。
業力を消去することは苦しいのですが、師父はすでに私たちのために多くの業力を消去して下さいました。各次元に分けられた業力は私たちを向上させるためのものになっています。
法を学ぶことの重要性は私たち誰もが知っています。業力を消去する苦しみの中で、苦しみを恐れ、早く終わらせたいという気持ちはわかりますが、「なぜまだよくならないのか」と疑いながら法を学ぶのは、自分自身の妨げとなります。心性が向上しなければ、業力は転化できないので、その業力の消去の状況が長く続くでしょう。
一切の執着心と観念を放下して法を学び、師父と大法を盤石のごとく信じ心を動ぜず、自分の業力に恨みも憎しみも持たず、苦しみに耐えながら精進することができたでしょうか? もしできていないとしたら、妨げている観念は何かと自分の内に向けてそれを探し出し、取り除きましょう。
以上は、現時点の次元での個人的な認識であり、不適切なところがあれば、同修の慈悲のある指摘をいただければありがたいです。