【明慧日本2024年10月6日】山東省泰安市の法輪功学習者である王淑華さん(女性)は、山東冶金地質探査局水文工程地質チーム(泰安市に所在)職員を定年退職している。法輪大法を修煉し、良い人であろうとする信念を貫いたため、一家は11年間もの間、故郷を離れて流浪生活を強いられた。その間、彼女は共産党からの凌辱と迫害を受け、毒物を注射され、それ以降、苦しみの中で生活していた。2013年には突然病状が悪化し、自宅で寝たきりとなり、体が歪んでしまった。足も痙攣して変形し、2024年8月14日に亡くなった。享年68歳。
拷問の再現:毒物注射をする |
1999年7月23日、泰安市泰山区公安分局財源派出所の指導員である王某が率いる警官たちが、何の手続きもないまま王淑華さんの家に押し入り、彼女と夫の修煉に使う法輪大法の書籍、ビデオテープ、オーディオテープなどを強奪し、家族の生活費である数千元も奪った。その後、彼女と夫の周伝忠さんは、3日間も職場のホテルに不当に監禁され、24時間体制で監視され、警官に供述を強要された。
1999年7月23日以降、王淑華さんと周伝忠さんは、自由を奪われ、自宅で24時間監視される生活が始まった。外出には許可が必要で、毎日派出所に行動を報告しなければならなかった。王淑華さんは「真・善・忍」を修煉し、良い人を目指すことが正しいと信じ、状況を訴えるために済南市の省政府に向かった。しかし、済南市に到着すると警官に阻止され、泰安市に連行され、一日中体育場に監禁され、午後になって職場の人間に引き渡された。
2000年1月23日、周伝忠さんは封鎖を破り、北京に直接向かい、国民としての権利を行使して状況を訴えた。周伝忠さんは1月25日に北京の警官に連行され、泰安市公安局の警官に連行されて故郷に戻され、留置場に30日間不当に拘禁された。その後、彼は警官と職場の書記に家で嫌がらせを受け、大津口雲海度假村というホテルの「転向クラス」に強制的に送り込まれ、洗脳を受けた。最終的には3千元(約6万円)以上を脅し取られ、職場から1年分の給料も差し引かれた。
この後、王淑華さんと周伝忠さんは警官や職場の人間から頻繁に嫌がらせを受け、家には安息がなく、正常な生活が送れなくなった。2000年3月初旬、彼女と夫は家を出ざるを得なくなり、湖北省、山西省、河北省などを転々とし、苦しい流浪生活を送った。
2006年2月26日の朝、河北省三河市の警官が突然、王淑華さんの仮住まいに押し入り、彼女の一家5人(彼女と夫、息子、息子の嫁、3歳の孫)を強制的に連行し、地元の派出所に連行した。その後、三河市の留置場に移送され、不当に拘禁された。警官は家の法輪大法の書籍、資料、現金、印刷機など約10万元相当の財産を強奪した。警官はこれを「2006年三河市第一の大事件」と称した。
王淑華さんはその後、廊坊市の法制教育センターに連行され、毒物を注射された。その結果、彼女はひどい痙攣を引き起こし、毎日吐き気と嘔吐に苦しんだ。三河市に戻されるまでの3カ月間、彼女は洗脳を強要され続けたが、家族の助けでようやく解放された。
王淑華さんは不当に拘束されている間、24時間体制で監視され、身体的な暴行や強制的に洗脳を受け、心身ともに深刻な損傷を被った。普段から血圧は190mmHg以上あり、最高時には290mmHgに達し、毎日激しい頭痛に苦しんでいた。彼女が「転向」しないと見た彼らは、彼女を廊坊市法制教育センターに送ってさらに迫害を加えた。そこに着くとすぐに警官は彼女に青色の液体を注射し、その結果、彼女は激しい痙攣を起こし、毎日吐き気や嘔吐に苦しむことになった。それでも、毎日2~3人が彼女に対して強制的に洗脳を続け、24時間監視下に置かれた。
三河市から廊坊市、そして再び三河市に戻され、王淑華さんは合計で3ヶ月以上にわたり迫害を受けた。彼女は終始「転向」の意味を理解できなかったため、彼らは目的を果たせず、最終的に家族に彼女を引き取らせ、自宅へ戻された。しかし、戻った後も地元の村委員会が政府と協力して迫害を続け、電気や水道を止め、60年間の賃貸契約がある住居を強制的に取り上げ、彼女と息子、息子の妻、そして孫を追い出した。これにより、彼らは再び家を失い、放浪生活を余儀なくされた。
その間、警官は彼女の息子である周叢林さんを強制的に拘束し、彼は留置所で警官と他の収容者から激しい暴行を受けた。全身に怪我を負い、特に両脚は黒紫色に腫れ上がった。周叢林さんは法輪功を修煉していなかったため、1カ月後に釈放された。釈放時、息子の妻は彼のひどい状態を目の当たりにし、留置場を告訴しようとしたが、留置場の所長は責任を恐れ、2,500元を息子の妻に渡して事態を収拾しようとした。
2023年2月28日、王淑華さんの夫である周伝忠さんが第938号「明慧週報」を配布したため、泰安市岱岳区公安分局の国内安全保衛部門(法輪功迫害の実行機関。以下、国保)の副隊長の許崇軍や警官の趙峰、そして粥店派出所の警官たちにより自宅が不当に捜索され、すべての資料が押収された。そして彼は派出所に連行され、1年間の「保釈処分」を受けた。彼が「悔過書」と呼ばれる文書の署名を拒否したため、国保は彼を肥城市検察庁に告発し、肥城市裁判所は彼に対して1年の実刑判決と5,000元の罰金を科した。しかし、健康上の理由で拘置所に入所せず、彼は自宅に帰った。
その間、王淑華さんは何度も驚かされ、夫が派出所に連行されたり、不当に裁判にかけられたりするたびに、彼女は1人自宅に取り残された。身体の痛みに加えて心の苦しみも重なり、彼女の体調はさらに悪化し、2024年8月14日にこの世を去った。
その後、人事局は夫の周伝忠さんの年金を差し止め、息子は交通事故で負傷し仕事も見つからず、生活は困窮した。王淑華さんが亡くなった時、家には500元しか残っておらず、遺体を火葬する費用にも足りなかった。夫は親戚や友人に迷惑をかけたくないと、自分の三輪車で遺体を故郷に運ぼうとしていたが、ある親戚がこの状況を知り、1万元を貸してくれたため、ようやく遺体を火葬することができた。埋葬しようとしたとき、その場所の上空には急に大雨が降り始めた。夫は彼女の心の悲しみを理解し、彼女に向かって一言声をかけると、雨は止んだ。
王淑華さんが埋葬された後、夫と息子は悲しみを抱えて家に戻った。その夜の真夜中、息子が眠りにつくと、20歳の姿をした母親が金色の袈裟を身にまとい、八枚の金色の蓮の座に座って、ふわりと現れるのを見た。